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三毛の中南米紀行 -21-

<修正前>

恋人 

アルゼンチン紀行 

 

 

私たちを乗せたバスは朝の間ずっと大平原を走り続け、ようやくハンドルを切って古木の立ち並ぶ大きな並木道に入った。 

 入口には柵もなく、人がいた気配もない。 

 一本の古木に小さな木札が打ちつけられており、そこには「夢路牧場」と書かれていた。 

まばゆい夏空のもとに広がる草原に、おもちゃのような牛やアルパカが散らばって、地平線の果てには、何軒かの砂色に霞む小屋が青い煙を立ち上らせている。林のあたりには手綱の付いていない駿馬が群れをなし、一匹の黒い犬が嬉しそうに草原を走り回っている。牧場を横切って流れる小さな川はこの夢の土地に結ばれたリボンのようだ。 

 道の突き当たりに砂埃が舞い上がり、数頭の駿馬がこちらに向かってまっしぐらに駆けてきた。 

 乗客は騒然とし、皆窓から体を乗りだし手を振った。長旅の疲れが一瞬消え去った。 

 私の窓にもいつのまにか馬に乗った人が来ていた。馬の筋肉は眩しいほどの美しさだ。 

 牧場の名前は目の前の景色のように、甘く非現実的である。このような楽園がこの世に他にあるだろうか? 

 牧場に入っても、私にはまだ信じられなかった。正真正銘の「ガウチョ」*1を目の当たりにしながら、彼らが私と同じ人間だとはどうしても思えなかった。 

 ひと時の間に、私の心は巨大な柔らかい喜びに包まれ、私は再び命が美しいものであることを確信した。 

 他の人は急いでバスを降りたが、私は両手で頬杖をついたまま、動くことができない。ふとした瞬間に涙を流してしまわないかと心配した。 

 ずっと夢見てきた日に、まさにここで出会えたのではないだろうか? 

 馬の背に乗っている一人が私を注意深く見た。木陰にいても燃えるように鋭い眼差しだ。 

 「降りてください まだ寝ているんですか お姉さん!」 

ガイドが草原から叫んだ。 

 私の姿は外国人から見たら確かにカーゴパンツにおさげの娘だが、私が何を考えているかなんて誰も知る由もない。 

 服を整え、最後に降りた。あの馬に乗った人が手綱を引き、腰を曲げて私を支えようとしたが、私の手は彼の手から滑り落ちた。私は彼に微笑みかけた。 

 四ヶ月の長期旅行の中で、ツアーの一日観光に参加するのはこれが初めてだ。 

 アルゼンチンでは牧場だけを目当てにしていた。個人的な人脈もなかったので、仕方なく旅行会社に予定を組んでもらったが、絶対に乗馬できる場所にして、と言った。 

 チケットを買う時、私は何度も尋ねた。行動が制限を受けるのか、もしどうしてもガイドについて行かなくてはならないのなら私は参加しない、と。 

 「昼食をとる時に戻ってきてくれさえすれば結構です、その他はショーが見たくなければそれでもいいですし、自由にしていいですよ!」 

 ガイドの女性は、私が降車するのを見るとすぐにもう一度確認してくれた。態度がとても穏やかで気持ちが良い。 

 バスを降りると、 早速「ガウチョ」の集団がギターを弾き、ビーフステーキとラム肉、ソーセージを置いた炭焼き台がいくつも並ぶあたりで声高く草原の歌を歌いだした。 

 遠くの林にはきちんと鞍をつけた駿馬の群れがいた。正午の陽光に灼熱の暑さではなく、木の葉を通した日の光が銅貨のような影を落として、静かに草を食んでいる馬の背に降り注いでいる。 

ミシャを含め周りの大勢のツアー客は、ほぼ全員が冷たい葡萄酒とレモンジュースを飲むために草ぶきの掘っ立て小屋に入って行った。 

 私は急いで馬に乗ろうとはせず、「ガウチョ」たちの服装を注意深く、瞬きもせずに見ていた。 

 「ガウチョ」はアルゼンチンの草原に住む特別な人々だ。この言葉の意味はもともと「父なき子」であった。 

 一五八〇年、スペイン人アリアスが南米アルゼンチンの三百万平方キロメートルの土地に牛の群れを連れてきた。 

 当時、群れを管理することが難しかったため、牛たちはあちこちに散らばり、ついには何万頭もの野牛となった。 

 そのころ、「ガウチョ」という一ヶ所に定住しない人々が、野牛の群れを追って生活を始めた。放牧せず、土地にとどまることもなく、常に水と草を追いながら生きる。彼らの生活スタイルは変化し、現在は大牧場でのカウボーイスタイルになった。 

 「ガウチョ」たちは現在まで、伝統的な黒い上着と同色の裾を絞った七分丈のズボンを身に着け、腰には銀貨の付いた豪華なベルトを締め、牛皮のブーツを履き、背中には肘くらいまでの長さの銀の剣を挿している。また、右腕に巻いたロープ、中折れ帽、そして首に巻いたスカーフも彼らのトレードマークだ。 

 厚手の布に一つ穴を開けただけの、頭からかぶって着る「ポンチョ」は冬の上着であり、凍てつく原野に置けば寝るときの毛布にもなる。 

 これらの物以外に、大草原の中生きる彼らにとって必要なのは、一匹の駿馬、そして一本のギターだけだろう。 

 昔、ガウチョには家庭というものがなく、一人の女性とだけ交際することもなく、至る所に恋人を作ったため多くの父親のいない子どもが生まれた。 

 私は大きなグラスで二杯、赤紫の良い酒を飲み、ミシャに馬に乗るかと尋ねた。 

 「日が照りすぎているし、明日馬に乗ったらまた筋肉痛になるよ!」 

 「とにかくまずは楽しみましょ! 筋肉痛にならないかわりに楽しくもない、そうでしょう?」 

 「行かない!」 

 「じゃあ私は行くわ! 後で馬と私の写真を撮りに来てね!」 

 私は人混みを離れ、馬の方へ走って行った。 

 静かな草原で自分の足音も聞こえない。馬たちは私を見ると微かにざわめいた。 

 「怖がらないで、いい子、ほら、来て――」 

私はそっと近づき、一匹の褐色の馬に低く呼びかけた。 

 「怖くない、怖くない、いい子ね!」 

手でそっとと鼻先を撫でてみたが、馬は動かなかった。 

両手で抱き寄せキスすると、馬は私に寄り添い気持ちよさそうにしていた。大きな瞳がチラチラと私を見た。 

 「遊びに行きましょう。私を連れてって。いい?」 

 馬は何も言わなかったが、より私に近寄ってきた。私は馬に結ばれていた手綱を外し、鉄の手すりに上り、鞍をつかんでさっと跨った。 

 「走れ! いい子ね!」 

ぽんぽんと馬を叩き、私たちは陽光の下、軽やかに走り出した。 

 その馬が何歳かは分からなかったが、恐らく馬には天気が暑すぎたのだろう。激しくは走らず、最後にはとうとう青く広がる大空の下をゆっくりと散歩した。 

 馬を無理に速く走らせようとはせず、私は背筋をまっすぐ伸ばして、草原のそよ風に吹かれた。心は、空へと舞い上がっていった。 

辺りには何もなく、大鷹が雲のない天空を旋回している。 

その人がすごい勢いで馬を走らせやってきた時、草原には軽い砂煙が上がった。彼のスカーフがひらひらと白い鳥が舞うようになびき、遠くから馬の蹄の音が聞こえ、まっすぐ私を追いかけてきた。 

 バスを降りた時に私をじっと見ていたあの「ガウチョ」ではないか。私は顔を背け彼を見ないようにした。 

その大きな馬は私を追い抜きざまに、高く上げた手に持った鞭を振るい、私の後ろ側を打った、力を込めて一回。 

 彼は私の馬に鞭を入れたのだ。 

 馬は鞭打たれて嘶き、私が手綱を強く引くと馬は立ち上がり、私も叫んだ。 

前方の人は私の叫び声を聞くと、手綱を絞り、私が落馬していないのを見ると、体の向きを変え、また走った。私の馬は狂ったようにそれを追いかけた。 

追いかける馬はどうやっても止められない。馬が奔走するのに任せ、いつ自分が振り落されるかも分からなかった。 

前方の馬が林に走り込んでいく。私は低く垂れた枝が接近してくるのを見て、姿勢を低くして馬の首にしがみついた。 

 「いや――助けて――」 

 その人は私が突っ込んでいこうとする場所に馬を止め、手を伸ばして私の手綱を引いた。馬はようやく立ち止まり、ハアハアと息をしながら蹄を踏んでいる。 

 「私、馬に乗れないのに、なぜこんな悪ふざけを?」 

 恐怖で全身が震え、泣きそうになりながら叫んだ。 

ガウチョが手綱を絞りやってきた、ハンカチを手渡してきたがパンと叩いて押しのけた。馬の背から滑り降り、木に抱きついてしばらくの間咳が止まらなかった。 

 「悪かった!」 

 「わざとやったのでしょう! どこかへ行って! 早くどこかへ行ってってば!」 

彼はしばらく私を凝視し、顔に小さな笑みを浮かべ、何も言わなかった。抵抗する私を引っ張り上げ、誰も乗っていない馬の上に放り投げて彼は悠然と林から出て行った。一度も振り返らなかった。 

 

昼食をとっている時、私は長いテーブルの一番端に座った。ガウチョたちはギターを弾き始め、雰囲気は非常に賑やかで、美味しい葡萄酒が大きな壺で運び込まれた。牧場の宴会では血をしたたらせたままビーフステーキが大皿にのり、豪快に食卓に置かれている。 

 「今日の一曲目のアルゼンチン民謡は、我々のガウチョの一人が特別に中国の女性に捧げるものです。心を込めて彼女をお迎えします――」 

 ギター奏者がそう言うのを聞いたが、顔も上げなかった。彼が誰のことを指さしたのか分からなかったが、周りから拍手が起こった。 

 「中国人の女性、あなたの事だわ!」 

ガイドのシルヴァインが私を指して大声で言った。 

私はナイフとフォークを置いて立ち上がり、両手を挙げてそれに応えたが、そのバラードは空虚な草原を漂って行き、誰が贈ったものかは分からなかった。 

 遠くの大木の下に小さな四角いテーブルがあり、特別に白いテーブルクロスがかかっていた。椅子が一つ、人が来るのを待っていた。ツアー客の椅子ではない。 

 あの私の馬を鞭打った人が、人々の目を盗んでその離れたテーブル席に座った。バーベキューを任されている給仕がすぐに一人前の酒とステーキを出した。 

 私がその人をちらりと見ると、遠くで彼が私の方を向いて、こっそりとグラスを挙げた。二人にしか分からないくらいに僅かに。 

 この長い昼食の間、二度と彼を見ようとはしなかった。 

 だが、彼は非常に自信ありげだった。 

 

 馬術のショーが賑やかに草原で開催され、会場いっぱいに疾走する馬が鞍をつけていない馬たちを引き寄せた。どこからあんなに沢山の猟犬がやってきたのか分からないが、この騒ぎに乗じて吠えた。 

 私は木箱に座り、観衆から遠く離れていた。後ろには何十本もの巨大なユーカリの樹がひっそりと木陰を落とす。 

 あの特に豪華な装飾をされた馬はパフォーマンスをしていない。 

 私はこっそり振り返り、彼が馬に乗っているのをまた見た。林の影の深い所に立ち、私をじっと見つめている。 

 私たちは長い間お互いを見つめあったが、どちらも動こうとはしない。 

 彼は軽く馬を鞭打ち、私の側まで来た。 

 馬が一歩動けば私を踏みつけそうな位置まで来ると、私は立ち上がって木の幹に寄り掛かり彼を睨んだ。 

 周囲の喧騒が突然やんで、林は静まり、風がさわさわと吹く音だけが聞こえた。 

 「上ってきな 

彼はそっと言った。 

私は一瞬躊躇した。また彼の眼差しに触れてしまった。 

私は何も言わず、木箱を立たせ、その上に立った。自分からは動きもせず、また彼に求めもしなかった。 

彼は腰を曲げて引っ張り上げ、私を彼の馬の背に乗せた。 

彼はその勢いに乗じて私の髪にキスをして、言った。 

 「私に掴まって 

 私は素直に従った。 

 馬は小走りで走り、林を迂回し、ゆっくりとショーを見ている人々から離れていった。 

 「牧場は好きかい?」 

 「大好きよ!」 

私はため息をついた。 

 「ガウチョたちは好きかい?」 

 「あなたは本物のガウチョなの?」 

 「もちろんだよ、お嬢ちゃん。生まれてこのかただ!」 

 「私お嬢ちゃんではないけど」 

 その人は手綱を絞り、身をよじって私の手を握り静かに私を見た。深く深く私の瞳の中を覗き込んだ。 

 「君のような女性は、馬と話している姿からして生まれつきの『ガウチャ』だ。お嬢ちゃん、ずっと君を見ていた!」 

 「ガウチャなんて、牧場の男はガウチョだけど、女はそうは言わないでしょう」 

私は笑い出した。 

 「どこでスペイン語を勉強した? 

 「マドリード」 

 「君は私たちのようなアルゼンチンの田舎者が自分の奥さんをなんて呼ぶか知っているかい?」 

 「China」 

私はそう答えてから、ボリビアの悪魔たちの奥さんもこの呼び方だったのを思い出して、こらえ切れずに笑った。 

 「君はChinaになりたいか?」 

 「元から中国の女でしょう!」 

 彼の言葉遊びにそれ以上つきあう気はなかった。 

 「牛を見に連れて行って」 

ポンポンと馬を叩いて、小走りさせた。 

 「君をある場所に連れて行ってあげよう――」 

 「林にはいかないわよ」 

 「違う――」 

 その人は馬を走らせ、何も話さなくなった。 

 川辺に着いたが彼は歩みを止めず、密生した柳の樹の大きな林を抜け、さらに滔々と水が流れる川を渡った。 

 週一回、ツアー団体がくるたびに、彼の馬の背には毎回違う国の女性が乗っているのだろうか? 

 自分は誰かのコレクションに数えられているだけなのだろうと思うと、すぐに馬を下りて歩いて帰るのも厭わない気持ちになり、自分の軽はずみな行動を急に後悔した。 

 「この場所は普段誰も来ない。牧場の人さえ通らないところだ」 

 またしばらく馬を走らせると、ヴィクトリア時代の巨人のように大きな家が寂しげな草原の上に現れた。 

 彼はその家から遠く離れた場所に馬を停めた。 

 その建物はこの世に姿を現した夢と言わざるを得ない。静かに地平線の上に立ち、四方の鎧戸は閉ざされ、午後の日の光の下、硬直した孤独を漂わせている。 

 「気に入った?」 

 「すごく好き。とても好きだわ」 

 私はもう少しで泣きそうになった、これは、私の日常では見ることのできない幸福だ 

 「近くに見に行こう」 

彼はゆっくりと馬を進めた。 

 この人とは偶然に出会ったばかりだが、彼は私を知っている。私の心が何を欲しているのかを知っている。 

 「週一回ツアーが来たら、あなたは毎回このプログラムを付けているの?」 

私は尋ねた。 

彼は馬を停め、身をひねり、にっこりとほほ笑んだ。 

 「お嬢ちゃん、君だけだよ、なぜ自分をそんなに軽くみているんだね?」 

 「この家は誰の?」 

 「牧場の主人。この千ヘクタールの土地と牛とアルパカも持っている。私たちは観光に頼って生活しているのではない――」 

 「牧場の主人って誰なの?」 

 「ジャモラさん 

 「この家に住んでないの?」 

 「奥さんが死に、子どもは出て行って、彼はどこに住んでもいいのさ。家は、必要ない」 

 「じゃあいっそ、どこかへ行ってしまえば? 何も持たずに」 

 「牧場が彼の命だ、分かるか?」 

 分からないわけがないじゃない! ガウチョが草原を失えば、それはガウチョといえるのかしら? ガウチョが馬に乗らなければ、まさか街でバスに乗るんじゃないでしょうね! 

 彼らは特殊な人々だ。馬や牛の群れ、大空から離れたら生きてはいけないでしょう! 

 「この牧場には、沢山のツアー団体が訪れる。彼らが見るのは、あのショーだけだ。この土地の愛と感動に気が付くのは何人もいない――」 

 「私は――」 

 「君は違う。だから馬に乗せたんだ、まだ分からないか?」 

 私は黙って、彼の背中にもたれた。馬は私を乗せて段々とあの家に近づいていった。 

 「ガウチョは楽しいものだ。他人は荒野での生活は苦しい物だと思うだろうけれども」 

 「私は好きよ」 

 「君が好きなのは知っているよ。ここに住んで、三、四年もすれば離れられなくなる。降りて!」 

彼は馬を下り、私を地に下ろした。 

 「家を見に行く?」 
私は少し驚いた。 

 その人は何も言わず、鍵をとり出した。 

 「どうして鍵をもっているの? 私は入らない 

 「見たくはないの?」 

彼は淡々と聞いた。 

 「ご主人がいないから」 

私は固辞した。 

 「それでもいいさ!」 

彼は内心は面白くなかっただろうが、顔には出さなかった。 

 「何を見たい?」 

 「牛の群れ」 

 「遠いよ」 

 「かまわない 

 彼は軽く馬に鞭を振るうと、私を乗せて地平線をめがけて走り始めた。 

 途中、私たちは何も話さなかった。 

 「疲れた、私を下ろして!」 

牛を見た時にはバーベキューをしていたところからどれだけ離れているのかもう分からなかった。 

 「あそこに、まっすぐな棒が立っているだろう。井戸があるから、そこで水を飲めば疲れもとれる。ここで待っているよ」 

 そういうと彼は馬を下り、鐙をしっかりと踏めるように高さを調整してくれた。 

 「私が一人で乗るの?」 

「やってごらん。怖がらないで。好きになると思うよ」 

 彼が軽く馬を打つと、私は血のように赤い陽光に照らされた夕暮れの草原を走り出した。 

 これは彼が女性を誘惑するときに使う手だ。絶対に騙されてはいけない。中には騙される女もいるだろうが、私は完全に見抜いている。 

 傾いた太陽にはどうしても追いつかない。私は馬を大声で急き立て、水も飲まず、思う存分荒野を駆け廻った。 

 夢路牧場、あなたはあなた、私は私、お互いに関わらない。私が落馬してこの地に倒れない限り、私の静かな心をかき乱さないで。 

 馬は走るのに疲れ、後を振り返って彼の主人を探している。雲ひとつない大空の下、蹄の音だけがずっしりと重く鳴り響いた。 

 遠く離れても彼の眼差しはロープのように少しずつ私を引っ張り戻す。 

 私の髪は乱れ、馬の背にもたれたまま動くことができない。 

 「ほら――」 

彼が腕を伸ばした。 

 「うまく乗れたじゃないか。怖かったか?」 

私を地上に下ろす。 

 首を横に振り、草地に倒れ込んで何も言わなかった。 

 「お嬢ちゃん、またここへ帰ってくるか?」 

後ろで私に尋ねる声がする。 

 私は首を横に振った。 

 「ここの生活は君に合っている。ここで馬上のガウチャになりなよ!」 

私の髪を優しく手で整え、ひもで髪を結った。 

 私はまた首を振る。 

 「私と一緒に、牧場で暮らす。どうだ?」 

 「あなたは私の事を知らない」 

 「良いガウチャになるだろうということは知っているよ。考えてみてくれ。な?」 

 考えることなどできない。このカウボーイは頭がおかしくなっている。 

 「帰りましょう!」、私は言った。 

 彼は先に私を抱えて馬に乗せ、乗りかけた時に、私の髪の生え際にまたキスをした。 

「ブエノス・アイレスの宿はどこ?」 

「フロリダの家。とても小さなホテルよ」 

「いつ帰る?」 

「五日後にウルグアイに行く」 

「明日の夜七時に迎えに行く、車でドライブしないか?」 

 私は少し躊躇し、言った。 

「いいわよ」 

「五日あれば君を留まらせられる――」 

「ここに留まらせてどうするの?」 

「牧場は君のものだ」 

この人は狂っている、そうじゃなかったら何なのだ? 

私は何も言わず、彼が連れていってくれるのに任せた。両手を彼の腰に回し、来たときの人混みの中に帰ってきた。 

 

 「失踪者が帰ってきました! 誘拐されてしまったのかと思いましたよ!」 

 ガイドが叫びながら走ってきた。私はあの人の背中にもたれ黙っていた。 

 「もう一周してからろそう。いいだろう?」 

その人は私に聞いた。 

 私がこくんと頷くと、彼は強く馬を打ち、口笛を吹いた、そして手綱を強く引と馬は真っ直ぐに立ち上がった。一度ではなく、もう一度綱を引き、そしてそれでも足りずに、また綱を引いた。馬が激しく嘶き、群衆も驚いて後ろに下がった。 

 その後、彼は体を低くして、私に言った。 

「しっかり掴まっていろ。走るぞ!」 

 牧場の人影が遠くなり、馬の背の上でびゅうびゅうという風の音だけを聞きながら両手でしっかりと掴まっていた。彼は狂ったように走りながら、大声で叫んでいた。この午後に起こったことの答えを、飛ぶように走る馬の蹄で叩き出そうとしているようだった。 

 「俺のことが好きか?」 

彼が聞いた。彼が風の中、吼えるような声で聞いた。 

 「好きじゃない――」 

私は叫んだ。 

 彼はまた鞭を振るい、私は悲鳴をあげ続けた 

 一世紀の長さに思われたこの時間、私はずっと彼にしがみついていた。 

 ツアーバスの近くに戻り、彼はやっと馬の走りを緩めた。私は彼に「降りてもいい?」、と聞いた。 

 彼は馬から飛び降りると、手を伸ばし私を引っ張り、大勢が見ている前で私をきつく抱きしめて放そうとしない。 

「明日ホテルで私を待っていてくれるか?」 

「本気で言っているの?」 

 「君は本気じゃないのか?」 

 私は彼を見て、もう一度ゆっくりと言った。 

「あなたは私が何者かすら知らない。冗談はやめて」 

もし私が本気なら、彼はどうするというのだろう? 彼ははじめから拒まれることを知っている。 

 「愛しているのはこの生活とこの土地だわ、あなたではない」 

 「知っているよ。私を誰だと思っている?」 

彼はそう囁いて私を抱いていた腕を離した。 

 「あなたがジャモラ。この牧場の主人。浮わついた嘘つきよ」 

 私が彼の名前を言うと彼は少し驚いた表情を浮かべ、首をすくめて苦笑した。 

 「というよりはむしろ寂しい爺さんだよ!」 

 「年齢は問題じゃない。もしここに残りたければ、私は残るわ」 

私は苛立ち、言い放った。 

彼は何も言わず、馬をひいてとぼとぼと立ち去った。 

ガイドのシルヴァインがいつの間にか近づいてきた。その後ろ姿を眺めると、「ジャモラさん、今日は変になってしまったみたいです。普段は全くツアー客をかまったりはしないんですよ。孤独なガウチョなんです!」、と言った。 

私は驚いて彼女を見た。 

「本当ですよ。あなたには特別です。お昼時ですら私たちの側にテーブルを置いていました。あなたの近くにいたかったから――」 

「いつもそんなことを――」 

「いつもですって? 何度もここに来ましたが、彼は見に来てもすぐに帰ります。誰かを馬に乗せたことがあるなんて思っていたんですか?」 

私はこれを聞くとすぐ彼を追いかけた。その時、彼は眼鏡をかけていて急に老けて見えた。 

 「あなたにさよならを言いに来たわ!」 

 「私とまた少し散歩するか?」 

 「そうね――」 

 「次に君が帰ってくるとき、私は生きているか分からないな」 

 「人は永遠に生きるものよ。そんな風に言わないで」 

 そういうと堪えきれずに彼の頬に軽くキスをした。 

 「なんという名だ? これから何かあるたびに心の中で君の名を呼ぼう」 

 このガウチョは本当にどうかしている。しかし責める気持ちは少し起こらない。 

 「私はChina!」 

 

 バスが走り始めた。ガウチョたちが馬に乗って見送り、ゆっくりと牧場を出ていくバスに、手を振り走りながらついてくる。 

 その時、ジャモラさんはやはり馬の上だった。 

 彼の背後に黄昏時の草原が無限に広がり、その昂然と胸を張った力強い身体は西に沈む夕日の光芒の中で動かない一つの点になった。 
 

 

訳注 

*1 ガウチョ  

Gaucho。アルゼンチンに住む牧畜に従事する遊牧民 

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