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三毛の中南米紀行 -15-

オルーロの悪魔 

 カーニバルの日がだんだん近づいてきた。 

 ペルーの歴史ある町、クスコに滞在している時には何人もの旅行客と知り合った。彼らのほとんどはペルーの次には国境を越えてブラジルに行くと言う。リオデジャネイロのカーニバルに参加しお祭り騒ぎをするためだ。数人の旅行客からブラジルへ行こうと誘われた。ああいう盛大なイベントを見逃したら一生後悔するよ、と。カーニバルはきっと異様な熱気につつまれ、酔っ払いも多いだろう。ホテルも見つかりにくい。気が狂ったように大騒ぎしている街で旅の醍醐味を味わえるとは思えなかったので、頑なに誘いを断った。 

 ボリビアでもカーニバルが開催されるが、他の国とは全く違うやり方をする。オルーロという鉱山町ではディアブラーダ(悪魔のダンス)*1と呼ばれるフォークロア・ダンスを踊ってカーニバルと称している。悪魔には妻があり、妻たちも一緒に街に出てパレードに参加する。彼女たちは中国人女性と同じ「China」という呼ばれている。 

 初めてラパスに来た時、ホテルの宿泊客はカーニバル目当ての旅行者ばかりだった。オルーロはラパスから二百キロ離れており、人口十一万人の小さい町ではあるが、このカーニバルはボリビアで最も盛大な行事なのである。ホテルのフロント係はしきりに日帰りツアーのチケットを勧めた。一人五十ドルだ。個人で長距離バスに乗って行くほうが実りある旅になると思い、ツアーの勧めを断ったのだが、フロント係はカーニバルの前日に着いたあなた方はどう手を尽くしてもバスのチケットを入手することは出来ないでしょうと断言した。それでも私たちは長い坂道を上ってバス会社を一軒ずつ訪ねた。チケットは確かに完売していた。しかし、私は諦めきれずに、窓口の人に何とかしてくれないかと頼み続けた。ボリビア人は元々とても親切で、何度も頼むと少しきまり悪そうに払い戻されたチケットを出し、追加料金も取らずに売ってくれることになった。

 チケットは一枚しかないので私しか行くことができない。となりにいたミシャは少しがっかりした様子だったが、もうチケットが残っていないことがわかっている以上、ここで無理を言うのも良くないと思い、まずはチケットを一枚だけ買うことにした。しばらく待っていると、一人の女性がチケットを払い戻しに来た。偶然にもさっき買ったのと同じバスだったので、彼女が払い戻したチケットも私が奪うように購入した。

 翌朝、まだ空が真っ暗なうちにミシャを起こし、息を切らしながらバス・ターミナルに向かって暗い街を走った。こんなに標高が高い土地で坂道を上ったものだから頭が痛くてたまらない。しばらく我慢して歩き続けたが、本当に動けなくなってしまい、早朝の街でタクシーを拾ってバス・ターミナルまで送ってもらった。運転手は感激するほど親切でいい人だった。

 ボリビアは一般的に後進国だと言われているが、私たちが乗るベンツ社製のバスは時間通りに到着した。車内は清潔で豪華、しかもサービスが行き届いて気持ちよく、中南米では最高レベルと言っていい。ターミナルの建物も非常に近代的で、バスに乗り間違えることも乗客をぎゅうぎゅうに詰めこむこともいない。一般乗客は地元住民で、高級な服を着ているわけではないが決して貧乏臭くは見えない。彼らの教養の高さや物腰の穏やかさは、世界中を探しても滅多に見られないものだ。

 車はくねくねした登り坂を走り、足元に見えるラパスの街は霧の中に消えていった。見渡す限り果てしない草原の冷たい空気の中、日の出を迎えた。遠い空の果てに雪山が連なっている。薄紅色の陽光は山々を暖めることはない。清冽な高原が衆生の喜びや悲しみをきれいさっぱりと洗い流してくれる。草原とは、本当の高山地帯とは何かをアンデス高地に登って初めて知ることが出来る。もし大地の風景が人の心を陶冶するなら、私も自然に感化された一人だ。彩雲は草原の上空に浮かび、私たちの車と並んで移動する。車を降りたら、雲の一片を捕まえられそうだ。いやが上にも自分が標高四千メートルあまりの場所にいることを意識させられる。オルーロのディアブラーダを見ることが最優先ではない。この景色だけで魂が浄化される。もしこの壮麗で雄大な青空の下で命を落とすのなら、それもまた幸せだろう。この美しい空の下、私に他の思いはなかった。ただここで死んで、この一瞬を永遠にしたい。遠い空に鷹が飛び、草原には牛とアルパカとリャマが群れ、民族衣装を着た男女が雲の下に広がる緑の草原を駆けている。この地と中国の青海やチベットとどんな違いがあろうか。私は風景に心を奪われた。 

車が検問で止まったとき、顔の小さい綺麗なインディアン女性達がゆでたてのトウモロコシとチーズを売りにやってきた。これも私の大好物だ。代金を支払う時、また何度も感謝の言葉を聞いた。この国を好きにならずにはいられない。

 オルーロに到着後、町はずれで長距離バスを降り、市バスに乗り換えて中心部に向かった。バスが混雑していて乗れなかったのでバスの下で叫ぶと車掌が困っている私を見て、手を伸ばして力いっぱい引っ張り、安全な場所に乗せてくれた。そして両腕で私を支えてようやく発車した。この思いやりの精神こそがボリビアの象徴だ。ボリビアの人々はみな神の子だ。彼らに恥ずべきことは何もない。 

 パレードはもう始まっていた。ミシャは急いで観覧席を確保しようとするが、私は帰りのチケットを先に買うべきだと主張した。そうしなければ安心できない。帰りのチケットを購入してから群衆に混じって観覧席を探しはじめた。途中でかなり勢いの強い水鉄砲が私たちに命中した。腹を立ててはいけない。水が命中した者には幸運が訪れるという吉兆なのだ。これも南米数カ国のカーニバルの風習である。

 観覧席は現地の人が道に沿って造ったもので五階まである。一席五ドルで、二日間のパレードを座って見る権利がもらえる。私たちは四階に空席を二つ見つけた。同じ観覧席では様々な人々が踊りを見ていた。上の階に座っているのはインディアンのお婆さんだ。席が狭く私の厚いセーターを置けるスペースがなかったので、彼女たちがすぐ上で預かってくれた。

 ダンス・チームは四十五組、大半がオルーロの町の人々で結成されている。ふだんは錫鉱石採掘の重労働に明け暮れているこの町が今日だけはお祭り騒ぎになる。心ゆくまで楽しむ歓喜の踊りは、一種の生活の知恵とも言えるだろう。悪魔の群れがやって来た。まずは楽隊が先頭に並んで、ひとしきり賑やかな演奏を披露する。そして、観客の拍手喝采の中を仮面をつけた悪魔たちが歌と踊りとともに近づいてきた。きっと緑の顔に鋭い牙の生えた悪魔が髪を振り乱しながらやって来るだろうと思っていたのだが、目に入ったのは中国の獅子舞の面によく似ているものだった。赤と緑に塗られ、大きな目で睨みつけ、龍と鳳凰が刺繍された布を被って、胸のところに麒麟が描かれた、いわゆる悪魔の仮装をしている。

 「これは私たち中国の伝統衣装よ。あの龍と鳳凰……」、と隣に座っているオルーロの女の子に大声で言った。 

 彼女は「そんなはずありません! この風習は先祖代々受け継いできたもので、これはボリビアのものです!」と言い張った。 

 「だけど中国人はスペイン人よりもっと早く南米に来ていたの。沢山の証拠がある。あなたたちはどこから龍と鳳凰をつれて来たの?」 

 「それはあり得ないよ」 

近くにいた老人も話に割り込んできた。私は言い返した。 

「じゃあ、どうして悪魔の妻をChinaと呼ぶのですか。これは中国女性という意味では? それも偶然?」 

 「偶然だよ。中国人はここに来たことがない」、と老人は答えた。 

 周りが騒がしすぎて、この話を続けることができなかった。そして私の視線は次々にやってくる悪魔の群に飲み込まれていった。あれはまさに中国のものだ。獅子は口に宝刀を咥えているが、それは台南安平にある多くの古い家のドアに刻まれている魔避けの絵と全く同じではないか。聞いた話によると、オルーロの近郊地区の湖のそばに、中国人の顔をした住民が住んでいる。彼らの言葉の中にまだ中国語と似ている単語が残っているが、その集団が住んでいる場所は実際にどこなのかは分からない。 

 オルーロのディアブラーダを見て思ったことは、じっくりと調査すれば、南米インディアンとアジアの関係が分かるかもしれないということだ。インディアンが、モンゴルからシベリアの凍土原野を移動し、さらにアラスカから南米まで行ったことは既に世界各地の人類博物館でも説明が見られるが、中国の文化はその後ここにやってきたのだろう。これを証明するための確たる証拠はないが、例えばこの附近のある村落ではインディアンが酒を飲む時には必ず地面に少し撒く。これは中国古代、死者を弔う際に行った風習である。実に面白いことだ。

 このオルーロの有名な悪魔を全てカメラに収めて、台湾に帰ったら友達と一緒に見ることにしよう! 


*1ディアブラーダ 

  南米の三大カーニバルのひとつでもある「オルーロのカーニバル」のシンボルとも言える踊りで、1904年に誕生した。「ディアブロ」は悪魔の意だが、ここでいう悪魔が象徴しているのは、「スーパイ」または「ワリ」の名で知られるアンデスの山の神であり、同時にキリスト教にとっての悪魔サターンのことである。

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