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三毛の中南米紀行 -12-

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水から逃げる──雨の降る高原 四  ペルー紀行 四

 

帰りの列車で向かいに座ったのは女性だった。座席に腰をおろすやいなや大げさにため息をつき、列車が予定の時間よりも早く出たと文句を言い、また途中で見かけたインディアンが不潔だったと眉を顰め、しまいにはマチュピチュに来たこと自体を後悔し始めた。私は目を閉じたままでいたが、彼女のリマ訛りのスペイン語が気になってしまう。目をうっすらと開いて彼女の足元を見ると、なんと厚い靴下にかかとの高いサンダルを履いている。こんな服装でマチュピチュに来る人は滅多にいない。

 「私の言っていること、間違っている?」

彼女は傘の柄で私の膝を叩いた。私に話しかけていたのだ。顔を上げて、短い髪にえらの張った顔をして真っ赤な口紅をつけた女性に向かって微笑んで見せたが、ちょっと伸びをしただけで何も答えなかった。

 彼女の隣には前髪を短く切ったお洒落な女の子が座り、周りを気にする様子もなくクラッカーを食べており、彼女の母親らしき人とは無関係を装っている。

 「疲れたでしょ?」

その女性は親しげに話しかけた。話し相手を探している様子だ。

 「疲れたし、お腹も空いたわ!」、と私が言った。

 「大したことない石を見るために一日歩くのは割に合わなかった。どんな素晴らしいものかと思っていたけど、次は絶対に騙されないわ」

彼女の叫ぶ声は列車の半分まで聞こえるほどだった。

 「クラッカー食べる?」

隣の女の子が私に聞いた。私は一つもらってお礼を言った。

 「あなたは?」

今度はミシャに聞いた。

 「あ! ありがとうございます!」

 四人の大人が並んでクラッカーを食べている。幼稚園のような光景に笑ってしまい、そのあとは窓に顔を向けて風景を眺めた。列車はわずかな距離を進みゆっくりと停まった。

 「どうしたの?」

その女性は敏感に異変に気付き、ひとつ息を呑んだ。半分だけ齧られたクラッカーが口の端で止まっている。

 「待ち合わせよ!」、と私は言った。

 「何がすれ違うって? この線路は朝晩二往復しかない。適当なこと言わないで――」

折りたたんだ傘でまた私の膝を叩いた。

 「何を焦っているのよ!」

隣の女の子が彼女を睨みつけた。私は笑いながら聞いた。

 「あなたのお母さんなの?」

 「叔母よ! ちょっとヒステリックなの」と、彼女は頭を振った。

列車が停まったので、乗客の半数は我先にとレールに降りた。私はカメラを構えて、うなりをあげて勢いよく流れるチョコレート色の水面を撮影し始めた。

 「川を見て、すごい!」、その女性は窓の外を指さし、急に顔色を変えた。

 「一日に降る雨は少しだけなのに、川が荒れるわけない!」

彼女の姪は外に目もくれずまたクラッカーを口にした。列車の下にいる人たちは子どものように喜びながら立て続けに写真を撮っており、ミシャも列車を降りていった。私はひとつひとつ車輌を通って、列車の先頭車輌までたどり着いた。列車は停まっている。運転士、車掌、鉄道警察と乗務員は全員そこにいた。

 「どうして急に停まったのですか?」と私は微笑みながら尋ねた。

 彼らは誰も返事をせず、悪いことをしたかのように茫然と立っていた。その正直さを見たらこちらもどうしようもなくなる。

 「川のせいですか?」と私はまた聞いたが、誰も答えず、心配そうな表情をしている。

「三十キロ先の橋はすでに水没しているだろう」、ついに警官が口を開いた。

 「そこまで行ってから考えましょうよ!」

 「あの道はもうぬかるんでいる」

そう口ごもりながら答え、死にそうに怯えた顔をした。列車の外では川の水がごうごうと流れる音と、観光客たちの色鮮やかな服が入り混じって、その周りはまるでお祭りのように浮き上がり、人々ははしゃいでいるようだった。

 「私たち三百人以上の乗客をどうするつもり?」

 「分からない……」

そうゆっくりと答えたが、完全に茫然自失の体である。列車の外にいる人々は何も知らないように飛び跳ね、車輌の横の手すりにつかまって遊びはじめていた。

 「このまま待っていたらここまで水が上がってくるかもしれない!」と一人の警官が言った。私は顔をあげて左の絶壁と右の川を見た。空を見ると――まだ四時にもなっていないのに、すでに山は霧で薄暗くなっている。一等車輌の乗客をかきわけて進むと体の大きいガイドがつまらなそうに座りタバコを吸っていた。お互いちらりと見たが、声を掛けようとしなかった。マチュピチュの山頂に着いた時、このスペイン語ガイドは何人かの旅行客を連れてインカ時代に水を運んでいた小さい水路を見学していた。私は彼のほうに進んだが狭い石畳が見えたので、説明しているところに割って入るのは悪いと思い足を止めた。思いがけないことに、彼は説明を中止して私を睨み、不満気な表情を浮かべた。

「金も払わずにツアーに参加してガイドを聞くなんてずうずうしい!」

 「あなたが道の真ん中に立っているから通れないの!」

私は驚きと怒りを込めて言い返した。

 「なら先に行け!」

彼は激怒しており、尊大な態度だった。

「どう行こうが私の自由よ」

私は壁によりかかってそこに居座った。このような出来事があったので彼と再会するのはお互い気まずい。

自分の席に戻ると例の女性、イーダだけが向かいに座ったまま爪を噛んでいる。

 「何かわかった?」、と彼女は息をひそめとても緊張したように返事を待った。

 「水位が高くなったから、しばらく様子を見て出発するみたい」、と私は笑いながら言った。脅かさなくても彼女はもう十分に怖がっている。少なくともイーダは列車の下の人たちより状況を察知している。

 「私たちはどうすればいい?」、と彼女は目を大きく開いて私を見た。

 「もう少し様子を見ましょう!」、と言いながら私も座った。

 六時頃には向こう岸の低地にいた牛とアルパカ、藁葺きの家がみるみるうちに水に飲み込まれていった。屋根だけが水面に顔を出している。家屋の中には誰もいない。しばらく前まで笑っていた人たちは茫然と静かに暗くなっていく空を見ている。車内は死んだようにひっそりとしていた。私が耐え切れずにまた先頭車輌に向かって一輌目を通った時、二人の子どもが親に抱かれたまま寝ているのに気付いた。一等車輌は白髪で高齢の外国人旅行客が多く、彼らは言葉が分からない。焦って行ったり来たりしている人を捕まえて情報を聞いていた。

 「私たちは今どこにいるのですか?」、ある乗客が先頭車輌の中に貼ってある古い地図を指して運転士に聞いた。

 「ここまでしか来ていません」、運転士はそう言って短い距離を指差した。

 「道路には出られませんか?」

 「橋を渡って二十キロメートル先に道がありますが」

 「ゆっくり進むことはできないのですか?」

 「本当にゆっくり進まない限り、非常に危険です」

 「ここに停車していても地盤が低いから、水が上がってきたら列車の上に避難するしかない。あの絶壁を登るのは無理だ」

 「また車掌と相談してみます」

彼は汗を拭った。とても緊張している様子だ。しばらくして、列車はまたゆっくりと動きだした。薄暗い空の下、私たちは氾濫した川をあとにした。平原に出ると列車内の人々は歓喜した。イーダと私だけはまだ口を閉ざしたままだ。

 「また帰りもここを通らなければいけない。あの橋を……」

彼女はぶつぶつと呟いた。進むスピードが遅いため、橋はなかなか見えてこない。窓の外は知らないうちに真っ暗になり、冷たい小雨が窓にぶつかっている。他の車輌では小さい子どもがずっと泣き叫んでいる。父親が一人ひとりに「アスピリンを持っていらっしゃいませんか。子どもが熱を出しているのです」、と聞いてまわっていたが、誰も何の薬も持っておらず、皆黙って首を横に振った。前の車輌の人にも聞いているためその声だけがだんだん前の車輌に向かって遠くなっていく。

 「橋が見えた!」

私は窓にもたれかかりながらイーダに伝えた。

 彼女は窓辺に駆け寄った。水が湧き上がって橋のたもとまで来ているのを見て、「あぁ」と叫び、椅子に横たわった。

 「停めて!」

前の車輌の人たちがパニックになって叫んでいる。あの長い橋はレールがあるだけで周りには手すりなど何もなく、レールの外側には余分なスペースもない。まず先頭が進み、そのあとに一等車輌が続く。私たちの車輌は三番目だ。列車が激しく揺れはじめ、立っていられなかった。列車が速度を増し、窓の外のレールは見えなかった。水しぶきと激しい波音が両側からものすごい音を立てていた。外を振り返って見ると四、五両目もあがってきた。列車の車輌はすべて橋の上にあり、先頭車両は永久に岸の向こうに辿り着けないように思われる。

「平児(ピンアル)*1――」、ミシャが後から私の肩を両手で掴んだ。顔が真っ青だ。

 先頭はようやく岸に上ったが、綱引きのような水の圧力でそれ以上どうしても速く上ることができない。一世紀も経ったかと思われたその時間がようやく終わった時には、歓喜の声を上げる者すらなかった。妻は夫の胸に顔をうずめ、まるで九死に一生を得たかのようにしっかりとしがみついてその手を放そうとはしなかった。絶壁は暗闇に羽を広げて追いかけてくる烏のように影を落とした。猛獣が唸るような音がレールの左側から聞こえる。しつこく追いかけてくる水から永遠に逃げられない。夜はこうして更けていった。列車はゆっくりと進んでいたが、最後にはとうとう止まってしまった。

「どうしてまた停まったの?」

先ほどまで落ち着いていたイーダは、セーターを引っ張り、不安そうに座り直した。血の気を失い、これ以上は何事にも耐えられないような顔をしている。いきなり老けたようだ。レールの隣には小さい駅舎が水面に少しだけ見えている。駅の向かい側にあるのは木が生えていないはげ山だ。空は星も月もなく、あるのは、カーブした冷たいレールを照らしている列車のライトだけだった。運転士が列車を降りると乗客も後を追い、彼を取り囲んだ。

「今夜中に絶対クスコに帰りたいの!」、とイーダは鞄を叩いて強く言った。

彼女の姪は興奮し、車輌に戻ってきて叫んだ。

「もうおしまい! いきなり土石流が起きて流される。レールが宙に浮いているのよ、どうやって列車が走れるの?」

「おまえのせいだよ、雨季にクスコに連れてきて。リマにいたら居心地よく過ごせたのに。無理やり誘われなかったらこんなところに来てない!」、イーダは大声で姪に怒鳴り始めた。

二十二歳のベティは叔母の話を軽く受け流し、私の耳元で囁いた。

「進まない方がいいわ。私はあの緑のジャケットの男性が気になっているの。見て、あの窓の下の人よ」

私は彼女が誰を指しているのか知っている。まさに来たときに同じ車輌で向い側の座席に座っていたヒッピー*2の中の一人だ!

「趣味が悪いわね!」

私は彼女をからかって、笑いながら首を横に振った。

「かっこいいと思わない?」

「顔はまあまあだけど、仕草と服装が気に入らないわ」

「まあ、いいわ。ライバルが少なくていい」

彼女は笑って椅子の横に座り込んだ。

「どうしてこんな時にひそひそ話しているのよ!」

叔母さんはまた叫びはじめ手を胸の前に置いた。

「九時半だ!」

ベティは肩をすくめてまた列車を降りて行った。

「ミシャ。また情報を聞いてきて。よろしくね!」

 ミシャは大人しく従い、しばらく帰ってこなかった。

「かけましょうか? 寒くなりましたから」

私は毛布のポンチョを取り出して叔母さんの隣に座り、半分ずつかけた。懐中電灯で照らした人影は慌てていてどうしていいかわからないようだ。下の車輌では叫びながら人々が逃げていた。逃げてホームに登る人もいれば、車輌に戻った人もいる。

「どうしたの?」

私は通りすぎる人に聞いた。

「水が来た。波に飲み込まれたんだよ」

隣のイーダは目を閉じて聖母マリア、イエスと低い声で祈り続けている。

ミシャはしばらくして車輌に帰ってきた。私は彼のカメラバッグを漁った。

「朝出てくる時、絶対にチョコレートを入れたのに、どうして見つからないのかしら?」

暗い中でうつむいてしばらく探した。

「食べちゃったよ」

「いつ?」

私は手探りをやめた。

「たった今、プラットホームで」

「ミシャ、あなたは朝ごはんも晩ご飯も食べたのに。私は──」

彼はバツが悪そうに暗がりで私を見て、後ろに手をついた。

彼を引っ張ると紙コップが出てきて、コーヒーを飲んだ形跡があった。

「こんな時にどこで温かいものが食べられるの?」

「ホーム脇のろうそくがついている店は開いていたよ―」

「自分だけ飲んで、私とイーダのために買ってこようとは思わなかったの?」

私は首を横に振りながら彼を睨んだ。

 「また買いに行く?」

 「もうないよ! 売り切れた」

 「売り切れ――」

私はその言葉を繰り返し、列車を降りた。

 流れこんだ水はレールの上まできていた。人々がその周りを行き来しているようだが、はっきりとは見えない。一軒の店だけが小さなろうそくの光を放っていた。

 私はコーヒーを三杯抱え、布袋の中にバナナを放り込んだ。ホームの下ではヒッピーが集まっており、ベティも一緒に寄りかかっていた。

 「ベティ、あなたの分を持って行って!」

 彼女は水の中を歩き、楽しそうな様子だった。

 列車に戻るとズボンの裾はびしょびしょで、せっかく手に入れた食べ物も喉を通らない。だんだん高くなっていく水位をひたすら眺めるほかなかった。

 既に十時十五分になる。

 駅員はクスコに電話をかけて車で遠回りをしてここまで迎えにきてもらうようにしたと言った。クスコからこの駅までどのくらいかかるのかと尋ねると、道中も浸水しており、早くても二時間はかかるとのことだった。二時間後にはこの水位は腰までになるのではないだろうか。帰路には多くの橋を通らなければならない。その時の水位はどのくらいまでになるのだろう?

 長い待ち時間、誰一人話さなかった。夜の冷たさが人を震えさせる。

 十一時半になっても状況は変わらなかった。

 暗闇の中どのくらい座っていたかわからない。下のほうで騒いでいたベティが叫んだ。

「トラックが来たよ。叔母さん、降りてきて!」

 私はイーダを押しのけて駆け出し、列車を降りた。彼女は冷たい水の中に足を踏み入れて驚き、それ以上歩こうとしなかった。

「私についてきて。イーダ、掴まって!」

ミシャに一言告げ、先に飛び出した。

 沢山の人がゆっくりと走るトラックに向かい走りだした。ライトの前で水しぶきと叫び声が入り乱れた。

「後ろから順々に乗れ! 押し合わないで!」

バスの運転手は叫びながら、牛とアルパカを運ぶ後ろの柵を開けた。

人の波が一斉になだれ込み、先に中に入った人は押しつぶされて悲鳴を上げた。

私は後ろからは入らず、すばやく運転手の隣に座ってドアをロックした。この時やっとイーダたちを思い出した。

 ミシャは混雑した暗がりで何度も窓から覗きこんだが、私がいることが分からず、後ろに走っていった。

 私は彼を大声で呼ぶことはせず、助手席から降りて走り、彼をつかまえた。

「前よ。イーダと私は運転手の隣に座るの!」

「だめ、トラックには乗れない。生まれてこのかた乗ったことがないもの!」、とイーダは駄々をこねた。

 「こんな時に何をわがまま言っているの?」

私は彼女を無理やり押した。

「ベティは? ベティがいない!」

一向に乗ろうとしない。

 「気にしないで。あなたが先よ!」

私は彼女が躊躇っているあいだに席を奪われることを恐れ、先に乗りこんでイーダを引っ張った。

 「いや! いやよ! こんな車、怖いわ!」

彼女が叫んだせいで後ろから乗る人たちに気付かれてしまった。

 ロックがかかった右側のガラス窓を必死に叩いている人たちを私は無視した。

「小さな子どもがいるんだ!」

ある男性が隣に来て、私を下ろそうと強く引っ張った。

 子どもがいる父親だと聞いてしまうと何も言えず、そのまま降りることにした。

この外国人旅行客は、奥さんと小さい子どもを乗せてから彼自身も乗った。運転手は後ろのほうで狂ったように叫んでいる人たちでいっぱいの荷台の扉を無理やり閉め、運転席に戻った。

「急ごう! 橋がもちこたえられない!」

 大きな音と水しぶきをあげて走り出したトラックはあっという間に見えなくなった。

「全部あなたのせいだわ! 嫌な人!」

ベティは叔母さんに向かって紙コップを投げ、罵りはじめた。

 「ベティ、いいこと? おばさんは今までいい暮らしをしてきたのよ。あんな車に乗れるわけない」

イーダは水の中で涙を拭った。

 「次の車が来たら私たちはすぐに走りましょう。イーダに構わずに!」

私はそっとミシャに言った。

 「彼らの話だと、鉄道会社は振り替え乗車のバスを呼ぶ義務はないそうだ。それに、僕たちみたいな、ツアーに参加していない人は乗せてくれないんだって」、とミシャが言った。

 「え? 何? 本当?」

 「本当かどうかは分からない。そう言っていたと思う」

 暗闇の中で誰一人として声をあげる者はいない。トラックの到着は彼らの希望を掻き立てた。三百人以上の老若男女は皆列車に戻らず、徐々に水位が上がってくる冷たい水に浸かって静かに待っていた。

 雨は寒い高原の地に一日中降り続いていた。

私は周りの状況を見た。列車の屋根の上とホーム以外は水を回避できない。あの岩盤は太いロープがないと登ることが出来ない。店の家族は商品の箱をかつぎ、急いで水の中を去って行った。あの小さな明かりも消えて見えなくなった。

道路に通じるあの泥道は斜面になっている。住居はまだ完全に浸水しておらず、これから先どんな状況になるか全く分からない。この目に映るものが全てなのだ! 川は暗いので見えないが、膝下の冷たい水は明らかに徐々に上がってきている。もう膝まで浸っている。遠くのほうで川の音ではない音がし、続けて光も見えた。ミニバスに人々が近づいて行くと、斜面で停車し降りてこようとはしない。

 「宇宙旅行社のお客様、手をつないで私についてきてください。はぐれないように」

スウェーデン語を話すガイドが車に乗って扉の前に陣取り、他の人を乗せないようにしている。

 本当にツアーの人だけしか乗れないのだろうか? そんなことあり得ない。十一人しか乗っていない車内は明るく、後ろの席は空いている。スピードをあげて水に入り、人々が驚いて離れた隙に、すばやくレールの上でバックして急カーブを切り、十一人の客だけを乗せて走り去った。

「ちょっと! ろくでなし!」

私は追いかけながらバスを呼んだが、水中では思うように走れず、腰の上までびしょ濡れになってしまった。

 「理解できない――」

私は顔にかかった水を拭い、この怒りを誰にぶちまけていいか分からなかった。どしゃぶりの中、また小さなバスが来た。ひとしきりの混乱の後に車に乗ったのは十数人だけで、また満席にならなかったが、そのバスも行ってしまった。ガイドが先導し、手を繋いだツアー客だけが乗っていったのだ。バスのドアでは車掌が乗客を見張って陣取っているので、周りにいる人々が入り込むことは出来そうにない。

 合わせて四台のバスが来たが、意外なことに全てが小型バスで、更にまさか彼らがこのように対応するとも思わなかった。

 「次が来たら突進するわ。ついて来られない人はクスコで会いましょう。混雑しているからカメラに注意して!」、とミシャに言った。

ECHO、私たちは一緒にいましょう」

ベティは私のところへ走ってきて、イーダもふらふらとやって来た。

 「バスが来たら、私が先に乗るわ。ドアを押さえている間に急いで乗って。分かった? ここのガイドはみんなろくでなしよ!」

既に十二時半をまわり、増水は緩やかになったようだ。鉄道作業員は一人も帰らずにずっとそこにいる。ガスランプを持ち、足元を照らしてくれている。

 「皆が我先に殺到しないように、あなたたちもしっかり管理してください。さっきのような空席があるバスに逃げられたのはあなたたちの気が弱いからよ」私は鉄道警察に言った。他の人たちは皆黙っている。かわいそうな親は背と胸に二人の子どもを抱えながら暗い水の中に立っている。バスがまた来て遠くに光が見えたので、すぐに斜面に向かって走り出した。すると太陽旅行社の人たちが一列になってバスを奪い合う敵になった。お互い押し合っている。車掌がドアを開け、ガイドが乗り、我先にと乗った人を蹴った。ツアー客は十四人だけだったので、私は後ろにぴったりとくっついた。ドアはまだ閉まっていない。そしてドアの手すりをしっかりと掴んだ。

「あんたは違う、降りろ」

その人は以前トラブルがあったガイドで、私が乗ったのを見て驚き、手で押してきた。私は無理に乗ろうとはせず、彼の襟をつかんで引き摺り下ろした。バスの外は人の群れで、人々の後ろには荒れ狂った水が迫っていた。

「私たちが行けないのなら、あなたも行かせない――」

私は大きな声で叫んだ。彼はどうにかしようとしているが、彼の服を離さず力づくで彼をバスから引き離した。

 「乗ってもいいが、先に五千ソル*3払え」

彼は私の剣幕に怯え、抵抗する手を止めた。バスはドアを開いたまま停車している。

 「お金なら払う。先に乗せて」

「下の人たちもバスが行かないように阻止して」、と私は叫んだ。

人々が車の前に殺到し、ガイドが慌てている隙に私は飛び乗った。乗車口ではミシャがドアを掴んで半分乗り込んでいた。

「彼を乗せてあげて!」

 車掌がミシャの乗車を妨げようとしてミシャの胸にあてがった膝を、私は力まかせにひっぱった。ミシャが車に乗りこんで、私は大きく息をついた。見ると前のバスは行く手を遮られている。今度こそ彼らも逃げられない。ドアの傍でイーダが泣き始めた。彼女は本当に気弱だ。まだ乗っていない人がいるのにドアがバタンと閉まって、最前列に座っていた観光客が、すぐにロックをかけた。

 「出発しろ!」

ガイドが運転手に命じた。この馬鹿な運転手は外にまだ人がいるのに出発させた。

 「どうかしてる!」

私はポンチョを脱いで空いている席に放り投げ、運転手に襲いかかった。

 「それでも人間なの! 神から罰を受けて地獄へ行きなさい! キリスト教徒でしょ!」

私は運転手の肩を叩いて罵った。宗教の話を出すと気持ちが揺らいだようだった。彼らは全員神教徒、つまりスペインのキリスト教徒だ。

 「奥さん、これはツアー団体のバスだ。あなたは無礼者だ」

「私が無礼者? 席は空いているじゃない。あなたたちは下の人たちを水の中に立たせて、道がなくなろうとしているのに知らんぷりをしている。誰が無礼者なの?」

 話しながら私はロックを解除しようとすばやくドアに向かった。ドアのロックは運転手が入り口の横で制御する仕組みになっていて開けるすべがない。

 「開けて!」、と私は叫んだ。

 「あんたを乗せてやったのにまだ騒ぐのか! どうしたいんだ? 降りろ!」

ガイドは本気で怒りはじめ、両手で私を掴んで外に押し出そうとし、ドアを開けた。この時私は彼の襟を掴むことができず、逆に強い力で両腕を掴まれた。今にもバスから降ろされそうになったが、バスの下の人たちが私を押すので降りられない。

「力を貸して!」、と私は叫んだ。

 するとこの時、バスに座っていた黒ひげの男がやってきて、ガイドの肩をぐいっとつかんだ。

 「馬鹿者! 彼女を放しなさい!」

そう言いながら私の手を引っ張ってバスに乗せた。ガイドは彼の客に反抗できずに立ち尽くした。黒ひげが入り口に立ち、バスが動きだした。

 「車を出すんじゃない!」

低い声で脅したため、運転手も逆らえなかった。

 「押し合わないで! そこの子どもを抱いているご夫婦は乗ってください! お年寄りを先に乗せてあげてください!」

彼はその場を仕切りはじめた。人の群れは両側に移動し、夫婦は車に乗り二人の子どもを空いている席に座らせた。母親は子どもにキスし、静かに泣いていた。白髪の老夫婦も乗せてもらえた。だが、イーダとベティは乗車していない。私は人の群れのなかで彼女たちを必死に探した。雨の中で人がぼやけて見え、ただ見えたのは緑色のジャケットだけだった。

 「これは余計お世話か?、私は余計なことをしているのか? あなたたちペルー人には良心がないのか――」

黒ひげがガイドに詰め寄った。

「喧嘩しないで! すぐに出発するよ!」

バスに乗っている他の客が叫んだ。下の人たちに同情せず、早く逃げたかったようだ。

 「まだ出発しないで! まだ人が乗れる」

私は運転手に飛びかかった。この時ドアがバタンと閉まり、運転手がドアのところにぶら下がっている人の胸を蹴り飛ばした。急カーブを切ってつかまっていた人たちを振り払い、冠水している道路に突っ込んでいった。私は諦め、バスの通路に呆然と立っていた。この時バスの中の電気が消えた。

「平児、座りなよ――」

ミシャはいつの間にか私が捨てたポンチョを拾い上げており、そっと私にかけた。私はじっと彼を見つめた。彼は目をさっと背けた。黒ひげが歩いてきて、私の前の空いている席に腰かけ、深いため息をついた。彼も諦めたのだ。半分しけったマッチを取り出し、震える手でつけようとしたが、どうやってもダメだった。

「どこから来たんだい?」

前の人が私に聞いた。

 「中国の台湾です。あなたは?」

 「アルゼンチンだ」

彼は私にタバコを求め、また言った。

「スペイン語、上手じゃないか!」

 「私の夫がスペイン人なんです」

 実際にはそれは過去のことだったが、文法は知らないうちに現在形になった。長い旅の中で初めて知らない人にこんなことを話した。辛さが喉を締め付け、それ以上言葉が続かなかった。雨がバスを激しく打ち、バスの中が静かになった。私たちのバスは水が溜まっている道路の橋を渡れず、もう一つの道を曲がってクスコに向かった。

 早朝四時にやっとクスコに到着し、乗客が一人一人降り始めた。私とミシャが降りる順番になると、ガイドが道を遮った。

「一万ソルだ!」

「私は約束を破らないわ」

 彼の手に二枚の紙幣を置いた。

 「お金が人生の全てではないからね。この話、キリストに教えてもらわなかったの?」

私は優しく言った。 彼は頭を垂れ、何も言わなかった。

 「帰ってゆっくり休もう!」

ミシャが皮肉っぽく言った。

 「休憩なんて。今すぐ警察に行って、まだ残っている人たちを迎えに行くように言わないと。私たちは休めないでしょ?」

私は足をひきずり、警察署に向かった。

 

 

補足

あの日の洪水で六百人の人が行方不明になり、遺体は三十五体しか見つからなかった。残された二百人あまりの旅行客は警察がクスコに連れて帰った。鉄道は廃止になり、道路交通も遮断された。あのマチュピチュの山間地の中に留まって降りてこなかった旅人は、私がクスコを離れて車に乗り山を降りてナスカに行った時もどうなったのか、その消息は全く分からなかった。

 訳注

*1平児  三毛の本名懋平の愛称。

*2ヒッピー  伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とし、また、文明以前の野生生活への回帰を提唱する人々の総称。

*3ソル  ペルーの通貨単位

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三毛の中南米紀行 -11-

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神秘の街――雨の降る高原 三

その日、私は列車の切符二枚を持ち、くねくねと曲がる路地の近道を抜け、小雨に降られながらエレーナのレストランに飛びこんだ。昼食の時間にはまだ早く、食堂には誰もいない。通用門を押して広い厨房に入る。

エレーナと彼女の母親は腰掛けて大きなソラマメを剥いている――私が頼んだ今日の定食メニューだ。「明日、マチュピチュに行くことにした!」、と言いながら小さな腰掛を跨ぐようにして座り、私も作業を手伝い始めた。

十七日から二日間滞在したクスコでは、いつもこの値段の安い小さな店で食事をした。この店では毎日スープとおかずを一種類ずつ作って定食にし、一ドル五十セントしか取らない――もちろん肉料理はつかない。

「そんなに早く?」

エレーナの母親は手を止め、残念そうに私を見た。ママは知っているのだ。私がマチュピチュを見終わったら、永遠にクスコを離れるということを。

ここの人々は年を取った女性を「ママ」と総称する。私やエレーナのような者は「マミダ」、つまり若いママの意味だ。私はこのインディアンの言葉を中国語の漢字で「嬤嬤(ママ)」と書くのが気に入っている。まるで彼女たちの編み込んだおさげのような感じがするからだ。

「どうにか道も通れるようになったみたい」

私はため息をついた。

「一日で戻るんでしょ」、とエレーナが尋ねた。

「そうとは限らないよ、気が向けばその日のうちにマチュピチュから一、二キロ先の『アグアス・カリエンテス*1』に行って泊まるところを探すつもり。そしたらもう戻ってこないよ」

「それでも帰ってきて!」

嬤嬤が言った。

「あの遺跡には、お化けが出るんだって」

エレーナが出し抜けに言う。

私はそれを聞いて笑い出した。いったい何事かと思えば!

「まさにそのお化けを探しに行くのよ」

私は生の豆をほおばりながらニヤニヤ笑った。

 嬤嬤は私がこのように言ったのを聞いて、ぶつぶつとケチュア語のお祈りを唱え、手で十字を切った。実は嬤嬤とエレーナはマチュピチュに行ったことがない。あそこは、いわゆる観光客向けの場所なのだ。

 この遺跡は、一九一一年にアメリカ人ハイラム・ビンガムによって発見されたが、古代の住民の血をひく人々がなぜ今では一人も存在していないのかは謎につつまれている。そこで「失われたインカの街」と呼ばれ、徐々にその名が世に知られるようになった。

 嬤嬤とエレーナは、「マチュピチュ」というケチュア語の二語をめぐって激しく言い争っていた。一人は「旧市街」の意味だと言い、一人は「古き山頂」と訳すべきだと言う。

 どう呼ぼうと、どのみちあの山の街の人々は一人も残っていない。掘り起こされた遺骨の男女比は女十に対して男は一だった。

 「処女の街ね!」、と嬤嬤が言った。

 「骨からは男か女かしか分からないわ、処女かそうでないかなんて、どうやって分かるというの?」

エレーナはまた母親に食ってかかった。

 「実際、私たちインカ帝国の子孫はずっとあの遺跡の存在を知っていたのに、何の気なしにアメリカ人を案内したら、そいつが発見したということになったのよ」、と嬤嬤は言った。

「仕方ないじゃない、あなたたちより先にアメリカのイェール大学に報告しに行ったのが彼だったんだから!」

私は笑いながら言った。

 「案内しなければよかった。クスコにあんなにヒッピーが湧いて出るのはマチュピチュのせいでしょう?」、とエレーナは怒ってみせた。

 私は首を横に振って立ち上がり、外を一回りしてから昼食を食べに戻ることにした。私の分の定食には絶対にまた目玉焼きが一つ多くついていることだろう。

 「明日のメニューは何にする?」

嬤嬤が追ってきた。

 「ウイニャフーを炒めて、ニンニクの葉とお米を添えて」、と言ってから振り返って一言付け加えた。

 「私は来ないけどね!」

「ウイニャフー」はケチュア語でトウモロコシの芽、つまり美味しい物ということだ。

 長い間待ち続けたのだから、この十数日間の雨季など何でもない。ついに幼いころに本で読んだ神秘の街に行けるのだ。

 その夜はほとんど一睡もできず、翌朝まだ外が真っ暗なうちに、ミシャとエドワードの寝ている部屋のドアをノックした。

 「楽しい旅になりますように! 行って失望しないように祈るよ!」

エドワードが枕に顔を埋めてうつぶせに寝たまま言った。

 「絶対失望するよ。ハハハ」

彼はまた悪戯っぽく笑った。

 「早く行きましょう! 朝ごはんを食べている時間なんかない!」

私はミシャを促した。

早朝六時過ぎの駅は多くの人でごった返し、押し合いへし合いしながら騒いでいる世界中の観光客を見ただけでうんざりした。

 「なんて騒がしいの!」、と私はゆっくり言った。

 「騒がないと楽しく見えないからさ!」

 私はミシャに問い返した。「なにが楽しいっていうのよ?」

 私たちが買ったのは二等席の切符だ。列車に乗って席を見つけ、雨具をラックに置いて私は席に落ち着いた。ミシャは列車を降りてコーヒーショップに行くと言いだした。

 「行けばいい。列車が出発したらいい気味、もう二度と連れて行く機会はないよ」、と私は言った。

 「朝飯も食べさせないなんて厳しすぎるよ!」、とミシャが叫んだ。

 「だったら早く行ってきなさい!」

 あと七分で発車する。ミシャは乗車する人の波に押されながらそそくさと走り降りて行った。

 あのガヤガヤと騒がしい人たちも慌ただしく座席を探している。座席の番号を確認して、なんと私の向かいと右隣の席に陣取った。

 「あ! あいつだ!」

一人のテカテカ光るグリーンのジャケットを着た青年が叫んだ。顔を見合わせ、やっとクスコで初日に同じホテルに泊まっていたあいつだということが分かった。

 「ねえ、ねえ! インディアン娘、元気だった?」

 「笛はちゃんと曲が吹けるようになった?」

私は笑顔とも真顔ともつかない曖昧な表情で返した。

 彼らは私の周りに来て、意地悪くからかうように笑った。両隣には女の子が一人ずついて、またしても足を伸ばして泥だらけの靴を私のきれいな座席に投げ出した。

 「ここは私の席よ!」

私はぐいっとその足を押し戻した。

 「何するのよ!」

その女の子は私を睨みつけると、別の席に移った。

 この集団はもう私にかまってはこなかったが、今度はさっき乗車してきたトウモロコシ売りの少女をからかう声がずっと聞こえてきた。

 その少女は金髪の見知らぬ集団に囲まれ、怯えて今にも泣き出しそうだった。なんとか逃れようとするが行く手を阻まれ、顔を真っ赤にして懸命にかごで抵抗している。

 「行かせてあげたら?」

 力を込めてやつらの肩を押しのけ、子どもの手を引いて助け出し、もう一方の車輌から降りなさいと言った。彼女は重いかごを提げて逃げて行った。

 争いが終わり、互いに敵対し合うムードになった。向かい合って、双方表情を硬くしたまま座っている。

 列車はゆっくりと動き出し、やつらは手をたたいて歓声をあげた。ミシャが急いで戻ってきて、何とか列車に飛び乗った。

 「あれ? あの人たちって……」

ミシャがそっと言った。

 私はため息をついて何も言わなかった。

 おそらくこの四時間近くの道のりを心静かに過ごすことはできないだろう。

列車は「ウルバンバ川」に沿ってゆっくりと進んだ。私は左の窓側に座っていたので、山合の田畑や、牛やアルパカ、草花がはっきりと見えた。

 昨日は左の窓側の座席を是が非でも欲しいという私に、チケット売りの人が訝しげに尋ねた。

「あなた、行ったことがあるの? なぜそちらの景色がいいことを知っているの?」

窓外の景色は私の予想通りであったが、それ以外は全て外れた。嫌気のさす集団に囲まれることまでは予知できなかった。

 この川とクスコ付近の山谷は皆同じくウルバンバと名付けられている。高原からアマゾンのジャングルに入る長い長い急流である。

 列車はゆっくりと、その川の横をぴったりと沿って走っている。急流には大きな波までが立ち、波と波とがぶつかりあって霧のような細かい水飛沫をあげた。雨は上がって、緑の山々と民族衣装を纏ったインディアンが田畑にいる様子は目を愉しませる平和な光景である。農家の建築は同じアンデス山脈でもエクアドルの高原に比べると、 随分と立派だった。

 列車が進むたびに川の水は増えていき、反対側の席の人が溢れそうな水を見るために窓際に近づいて来る。誰かの腕が私の肩を押した。

 「なによ、押さないでくれる?」

私が振り返ってその人を押しのけたために周囲がまた騒々しくなった。

 ミシャはその騒動を見ると、カメラを持って車輌の連結部分に行き戻ってこなかった。

 私は奴らが期に乗じてミシャの空席を奪わないかと心配で、急いで靴を脱ぎ、清潔な分厚いウールの靴下を履いた足を彼の席に置いた。

 遠くの席の他の乗客は、向かい合う座席の真ん中に台を置いてポーカーを始めた。

 私は窓から顔を出して車輌の数を数えた。線路は山裾を抜け、川に沿って大きくカーブしているため、一目で五輌編成だとわかった。一等車が一輌、二等車が四輌で、座席は満席、三七〇人を乗せている。

 百キロ余りの道のりで、一人につき往復二十ドルだ。運賃が高いのはゆっくりと走るからだろう。一時間に二十七、八キロしか進まない。

 マチュピチュは沈黙の遺跡だが、そこを訪れる旅行客は様々で、世界の色々な方言が話されている。

 列車の客室乗務員が気を使い熱いコカ茶を持ってきてくれたので、お金を払う時に何気なく彼に聞いた。

「あの川はいつも波が高いの?」

「そんなことはないと思います、今日はおかしいですね!」

彼は一瞬考え、彼自身も少し躊躇いながら答えた。

 天気は感動的なほど晴れ渡っている。窓にもたれ、涼やかで新鮮な空気を思う存分吸い込み、下の方にいる保線作業員に手を振る。数箇所で怒れる川がレールに咬みつき、波が押し寄せるたびに、枕木の下の土砂が洗い流されていく。

 私は人を押しのけながら車輛のドア外に出て、風に吹かれながら立っているミシャを見つけた。

 「枕木の下が空洞になっているのが見えたの。水が下の路盤を侵食してしまっているみたい」

私は少し心配だった。

 「そんなことにはならないよ。天気はこんなに良いし、多分午後も雨は降らないと思うよ!」

 私は遠くの山のインカ時代に架けられた石橋を見つめた。列車の速度は極めて遅く、その橋を渡らない訳にはいかない。

 「さっきの水位は橋のすぐ下から四つ目の石のところにあったのに、今は一つ分増水して上から三つ目の石のところまできている」

 「見間違いだよ、そんなに急に増えるなんてありえないよ」

私も自分の見間違いだと思った。昨夜は一睡もしておらずかなり眩暈がしたので、自分の席に戻って毛織の上着を枕にして、二座席分を使いそっと横たわった。となりの集団の一人が高山病になり、大声で呻きながら頭を抱えている。私はひとりほくそ笑んだ。彼の仲間は相変わらず黙ることなく騒いでいる。何にあんなに興奮しているのか分からないが、車内でしきりに歓声を上げ大声を上げ続けていた。

 「まだ着きませんか?」と通りかかった車掌に尋ねると、雨季は地盤が悪くゆっくりと走るので五時間はかかる、通常は三時間半で着くのですが、との返事であった。マチュピチュに向かう山道は、前半はバスも通れるが、後半の五十キロは鉄道でしか進めない。このような有名な遺跡なのに、往復十八時間の道のりを除くと、あの青い峰の上での滞在時間はせいぜい二時間。それでは慌ただしすぎる。私は遺跡を見学して下山したら、「アグアス・カリエンテス」という小さな村に泊まり、翌日もう一度登って、夕方になってから列車で戻ることに決めた。雨具を除いて他の荷物は何も持っていない。雨具といっても一枚のビニールシートにすぎない。これならば歩くときに多くの面倒を省ける。

 まもなく訪れる遺跡は、スイス人作家エーリッヒ・フォン・デニケンの著書でも紹介されていた。彼は街の全ての人が謎の失踪を遂げたのは、街を捨てどこかに移ったのではなく、宇宙から来た人が連れ去ったと強く主張している。私には信じられないが、倪(ニー)(クァン)*2ならどう思うだろう? 信じるかどうかはさておき、マチュピチュに向かう道の途中、神秘的なことを心から愛する多くの友人のことがしきりに思い出された。そこに到着したら、彼らの魂に呼びかけ、私と一緒に宇宙の謎を解きに来るか試してみなければ。そんなことを考えているうちに、私の魂の方が先に抜け出してしまったようで、川の水音と列車の奏でるリズムの中、ゆっくりと眠りに落ちた。

 やがて顔に雨水が垂れてきたように感じ、はっと驚いて目を覚ますと、向かい側の乗客がビールを飲みながら濡れた手を振って、私の顔に水を飛ばしていた。私はゆっくりと起き上がって座り、顔を拭いた。相手は緊張しながら私の反応を待っていたが、私はむしろ徹底的に無視することにした。こうなると向こうは非常にきまりが悪い。五時間近いゆっくりとした旅は、向かいの席にいるグループと対峙し続けることにひどく疲れながら過ぎて行った。

 私たちは到着後に山に登るバスのチケットを車内であらかじめ買っておいた。他の乗客が下車後に押し合いへし合いしながらチケットを買っているとき、私はすでにミシャを引っ張って一番早い先頭のバスに乗っていた。マチュピチュは山頂にあり、車はジグザグに進む。この道をもしゆっくりと徒歩で登れば、道端の珍しい草花に目を奪われたことだろう。しかし私にはもうその気力は残ってはいなかった。

 「ここまでは鉄道しかないのに、バスはどうやってきたのですか?」

私はドライバーの後ろに寄りかかり、話をした。

 「列車が運んできたんでしょう!」、と彼が笑った。

 「川は? あなた方は川の水運を使わないのですか?」

私は振り返り、切り立った崖の下の雄叫びを上げるウルバンバ川を眺めたが、川の水はまだ渦を巻いていた。

 「危険すぎます。今日は特に水位が上がっているのが見えませんか」

 二十分近く山道を走り、バスは広場で停まった。同じバスのガイドさんが先に降り、「太陽旅行社のお客様は私と一緒に来てください、はぐれないでくださいね!」、と言った。

 クスコにまで来ながら一人でマチュピチュに来られない人がいるとは意外だ。実際はかなり簡単なことなのに。ツアー客は一組、また一組と見学に行く。二千メートルの高山からでも望むことができるのは山と川だけだ。遺跡はまだ見えない。私たちはもう確実に目的地にいるはずなのに。観光客と一緒にゆっくりと歩いていくと、山の小道に関所が設けられていた。入場券は二種類あり、外国人は五ドルでペルー人は一ドルちょっとだ。

 「なんで国籍によって入場料が違うの?」

 「外国人は金を持っているからね!」、とチケット売りの人が言った。

 「ペルー人は安く旅行ができるのに。私たちは高い旅費をとられたのよ!」

 「旅費が高くても来る、それが金持ちだよ」

それが彼の結論だ。チケット売り場を出ると、神秘の街が山頂のぼんやりと霞がかる平原の上に現れた。本や絵葉書で何百回と見た石壁や切れ切れになった塀にいざ対面すると、やはり言いようもない高ぶりを感じた。かつて私が心の中で何千万回も夢見た神秘の高原。霧雨の中、そこに立ち入った時、無常観がふいに心を捕らえた。振り払おうとしても振り払えない。

 「ミシャ、ここで別れましょう。探さないでね」、と言いながら自分の雨よけのビニールシートを持って、はや足で駆けた。

 観光客の大群が後ろから押し合いながら上がってくる。石の街に続く泥道は一本だけだ。

 私は石作りの低い塀を滑り降り、当時この地の住民が開墾してできた段々畑に歩いていった。今それらの畑には芳しい草が一面に広がり、ズボンの裾をじっとりと濡らす。観光客の前方に素早く先回りし、まだ喧噪に侵されていない石壁と屋根のない小さな部屋を一軒ずつぐるりと見て回った。遺跡全体は青々とした芝生に囲まれ、その緑の寂しさは、他の色で取って代わることはできない。迷路のような石の細道は、曲がり角で観光客と出会いがしらにぶつかってしまいそうだ。風格のある建築物とは言えない。四十分も経たずに遺跡を見終わってしまった。山頂の平原は小さく、これ以上いても、また同じ場所に戻ってきてしまうことだろう。書物にある歴史考証によると、この街は十七世紀までは間違いなく人が住んでいたというが、ならばなぜ突然消えてしまったのか?

 平原の後方には一本の樹も育たない青い頂きがそびえ立ち、捨て去られた荒涼の地を守っている。丘の上の何人かのインディアンが、観光客の頭上の石段から現れ、楽器を吹き鳴らしながらやってきた。私はかがみこんで、演奏者の足元にある空き缶にそっと銅貨を入れてすばやく立ち去った。

 同じ列車で来た人は皆石塀の中に押し寄せていて、ガイドが懸命に彼のお客をまとめようとずっと大声で叫んでいた。

「こちらに来てください! 私に着いてきてください、時間には限りがありますよ――」

 私は街を離れ、人と離れ、別のところにある小さな山に登った。雨の中、マチュピチュと私に距離が生まれた。もうその中にいないからこそようやくその美しさの全てが眼下に現れた。

 長旅で特に何か珍しいものを見ようと計画していた訳ではなかったが、ペルーのマチュピチュと、南方の砂漠にあるナスカ人の残した鳥と動物の巨大な地上絵は、それでもどちらかと言えば一度は見てみたいものだった。マチュピチュは、旅の目的の一つではあったが、この地も数日もしたら記憶の彼方に飛び去ることとなる。永遠に自分の手の中に握っておくことのできる物などないならば、風とともに去らせればいい!

 私は大岩の上に座り、両足であぐらを組んだ。私の推測では、この失われた街は修道院のような場所にすぎなかったのではないか。当時インカ帝国は太陽を崇拝し、メキシコの古代アステカ人あるいはマヤ人のように人を生贄として捧げることはほとんどなかった。しかし、やはり一族の中で最も美しい処女を選び太陽神に捧げ、隔離された場所に閉じ込めたのだ。もし重要な祭祀や祈祷があれば、やはり処女が選ばれ、引き出されて殺された。この都市の空虚さは、恐らくゆっくりと末裔がいなくなり、そして完全に寂れたためだろう。インカ帝国の天文知識、社会組織、道路や建築は非常に整ったものであったが、彼らは全てを精密な結び縄*3で記しており、ケチュア語は文字を持たなかったため、それらの生活の細部を知ることは難しい。それでは吟遊詩人はどうだろう? 歌うたいは絶対にいたはずだ。この神秘の街はなぜ何の物語も残さなかったのだろう? 私は数回深呼吸をし、自分を落ち着かせ、語ることのない自然に対して呼びかけた。もう一つの空間は沈黙を固く守り、ほんの小さなため息のような微波動ですら私に応えるものはなかった。

「アムイ――アムイ――」

ケチュア語を使い「来て!来て!」、と心の中で叫んだ。

 神々は沈黙し、山々は語らない。雲が湧き、雨が吹き、足元の遺跡は白い綿雲に隠れ跡形もない。

「あ……ハロー!」

やはりここまで登ってきた人が向こうからさも愉快そうに挨拶をした。エレーナの食堂で同じテーブルになったことがあるカナダ人だった。

 「あなたも来たの?」

そう聞かれて私は笑って答えた。

 「ずいぶん待たされたよね、ここを見終わったらすぐにボリビアに行く予定!」

 「ここはいいね」、と彼は私の横に座った。気がまぎれ、その人と少し話をすると、詰まっていた呼吸が楽になった。リラックスしたせいか、その場の空気が私個人の強い引力から自由になり、わずかながら反応した。その変化を捉えようとしたとき、横の青年がまた話し始めた。

 「ここにはお化けが出るんだって。下りたほうがいいよ」、と私は羽織っていたビニールシートをひっぱりながら言った。これを聞いて彼は大笑いし、上着を脱いでついた雨をふるい落とし、面白そうに私を見つめた。

 「どうかな、一緒に下りてコーヒーでも飲まない?」、と彼が聞いた。

 「やめておく」。私はそっけなく答え、すぐに「先に行っていて。私も後で行くから。それでもいい?」と付け加えた。

 「それでもいいよ。ここは急に寒くなるから体を冷やさないようにね!」

 彼は適当にあしらわれたと思って、気まずそうに立ち去った。

 細かい雨音がビニールシートの上に落ちる。私以外、また誰もいなくなった。

 何かが来て、私をとり囲んだ。空気が冷たくなり、背筋を冷たいものが通った。

 ――泣かないで、安らかに眠りなさい、もう泣かないで!

 すすり泣く声と嗚咽が鳴りやまず、初めは彼らと言葉を交わすことはできなかった。かわいそうな霊魂、私の友よ、悔しさを吐きだしていいのよ。あなた達に会いに来る人や、あなた達を愛する人は少ないのだから! 霧雨の中、あの川の憤怒の水音が高地の上まで聞こえてくる以外は全てが静かで、落ち着いている。私はもう一つの世界に入った。いつまでもいつまでも静かに座っていた。霧雨は過ぎ、薄い陽光が空を破って表れた。最後の言葉を聞き終ると、その空間にいる魂に心配をさせないようにビニールシートをしまい、山のふもとへ急いだ。

 観光客は皆もう昼食を食べに行っていた。秘密の街では数匹のリャマがまばらにいて草を食んでいた。

 「ミシャ――」

私は叫んだ。

 「ミシャ――ミシャ――ミシャ――」

山が答えた。

 遺跡内をはや足で探したが、あの音楽を奏でていたインディアンが石の上で寝ているのしか見つからなかった。

 「私の連れを見なかった?」

 「あなたは一人できたじゃないか!」

 私は走って神秘の街を離れたが、背中のぞわぞわした感じは私を追いかけてきた。立ち止まり、もう一度陽光に照らされた緑の遺跡を見た。「さよなら!」と心の中でそっと言った。

 「悲しまないで、さようなら!」

 私はもう一度心を落ち着かせた――霊魂、私の友人たちは消え、肩の冷たさもなくなった。

 ミシャはといえば、山の外側にあるレストランでちゃんと昼食をとっていた。

 「早く食べて! 列車に乗ってクスコに帰るんだから」

私は彼のじきに食べ終わるお皿をつついて、しきりに催促した。

 「今日は『アグアス・カリエンテス』に泊まるんでしょ?」

 「今、急に気が変わったの!」

 「まだ三時だよ!」

 「列車は早めに発車するし、待ってはくれないよ!」

 「なぜ分かるの?」

 「それは聞かないでよ。いずれにせよ、分かるのよ」

 間も無く二輌の最終バスも行ってしまう。私はミシャを引っ張って走った。まだ手すりに寄り掛かっていたカナダ人を見つけ、急いで聞いた。

「あなたは下りないの?」

 「多分六時半のあの列車に――」

 「もう一度言うわ、このバスはもうすぐ発車するのよ。早く乗って!」

 私は彼に向かって言ったが、彼は頭を横に振った。私はもう一度言った。彼はやはり動かない。

 「君はどうかしてるんじゃない? 君と旅するのは本当に大変だよ、スケジュールがこんなにコロコロと変わるんだから」

ミシャがバスに飛び乗り、息を切らしながら言った。

 「あのカナダ人は乗らないのかな?」

私は振り返って眺めた。

 「彼の自由だよ!」

 「もう、あの馬鹿――」

私はため息をついて、寄り掛かった。

 バスが停車し、私はチケット売り場へ列車の切符を買いに走った。私に渡された帰りの切符は、なんと来た時と同じ座席番号だった。

 三時二十分、線路周りでは大勢の観光客がまだ土産物を買っていて、乗車しようとしない。

 「乗りなよ! 発車を知らせてはくれないよ!」

私は家族旅行らしい日本人ツアー客に叫んだ。彼らは二人の子どもを連れている。

「まだ二十分あるよ!」、と下の方の人が言った。

 「何をそんなに急いでるの?」

ミシャが理解できない様子で言った。

 その時、列車がゆっくりと動き出した。発車を告げる汽笛の音も何もなく、動き出した。

 下にいた人々は驚き叫び、我先にと乗車した。何人もの人は走って列車を追いかけてきたが乗車できなかった。

 私は車窓にもたれドキドキしながら川の水をじっと見つめた。川の波は岸よりも高く押し寄せている。

 「私、少し寝るね。どこにも行かないでね!」

ミシャにそう言うと、あの青い峰の頂きにある高地をもう一度眺めた。ひんやりとした窓によりかかり、私は目を閉じた。

 

 

訳注

*1 アグアス・カリエンテス

地名。スペイン語では「熱い湯」の意。

*2 倪匡 

香港人SF作家

*3 結び縄

「キープ」とよばれる結縄文字

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