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三毛の中南米紀行 -11-

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神秘の街――雨の降る高原 三

その日、私は列車の切符二枚を持ち、くねくねと曲がる路地の近道を抜け、小雨に降られながらエレーナのレストランに飛びこんだ。昼食の時間にはまだ早く、食堂には誰もいない。通用門を押して広い厨房に入る。

エレーナと彼女の母親は腰掛けて大きなソラマメを剥いている――私が頼んだ今日の定食メニューだ。「明日、マチュピチュに行くことにした!」、と言いながら小さな腰掛を跨ぐようにして座り、私も作業を手伝い始めた。

十七日から二日間滞在したクスコでは、いつもこの値段の安い小さな店で食事をした。この店では毎日スープとおかずを一種類ずつ作って定食にし、一ドル五十セントしか取らない――もちろん肉料理はつかない。

「そんなに早く?」

エレーナの母親は手を止め、残念そうに私を見た。ママは知っているのだ。私がマチュピチュを見終わったら、永遠にクスコを離れるということを。

ここの人々は年を取った女性を「ママ」と総称する。私やエレーナのような者は「マミダ」、つまり若いママの意味だ。私はこのインディアンの言葉を中国語の漢字で「嬤嬤(ママ)」と書くのが気に入っている。まるで彼女たちの編み込んだおさげのような感じがするからだ。

「どうにか道も通れるようになったみたい」

私はため息をついた。

「一日で戻るんでしょ」、とエレーナが尋ねた。

「そうとは限らないよ、気が向けばその日のうちにマチュピチュから一、二キロ先の『アグアス・カリエンテス*1』に行って泊まるところを探すつもり。そしたらもう戻ってこないよ」

「それでも帰ってきて!」

嬤嬤が言った。

「あの遺跡には、お化けが出るんだって」

エレーナが出し抜けに言う。

私はそれを聞いて笑い出した。いったい何事かと思えば!

「まさにそのお化けを探しに行くのよ」

私は生の豆をほおばりながらニヤニヤ笑った。

 嬤嬤は私がこのように言ったのを聞いて、ぶつぶつとケチュア語のお祈りを唱え、手で十字を切った。実は嬤嬤とエレーナはマチュピチュに行ったことがない。あそこは、いわゆる観光客向けの場所なのだ。

 この遺跡は、一九一一年にアメリカ人ハイラム・ビンガムによって発見されたが、古代の住民の血をひく人々がなぜ今では一人も存在していないのかは謎につつまれている。そこで「失われたインカの街」と呼ばれ、徐々にその名が世に知られるようになった。

 嬤嬤とエレーナは、「マチュピチュ」というケチュア語の二語をめぐって激しく言い争っていた。一人は「旧市街」の意味だと言い、一人は「古き山頂」と訳すべきだと言う。

 どう呼ぼうと、どのみちあの山の街の人々は一人も残っていない。掘り起こされた遺骨の男女比は女十に対して男は一だった。

 「処女の街ね!」、と嬤嬤が言った。

 「骨からは男か女かしか分からないわ、処女かそうでないかなんて、どうやって分かるというの?」

エレーナはまた母親に食ってかかった。

 「実際、私たちインカ帝国の子孫はずっとあの遺跡の存在を知っていたのに、何の気なしにアメリカ人を案内したら、そいつが発見したということになったのよ」、と嬤嬤は言った。

「仕方ないじゃない、あなたたちより先にアメリカのイェール大学に報告しに行ったのが彼だったんだから!」

私は笑いながら言った。

 「案内しなければよかった。クスコにあんなにヒッピーが湧いて出るのはマチュピチュのせいでしょう?」、とエレーナは怒ってみせた。

 私は首を横に振って立ち上がり、外を一回りしてから昼食を食べに戻ることにした。私の分の定食には絶対にまた目玉焼きが一つ多くついていることだろう。

 「明日のメニューは何にする?」

嬤嬤が追ってきた。

 「ウイニャフーを炒めて、ニンニクの葉とお米を添えて」、と言ってから振り返って一言付け加えた。

 「私は来ないけどね!」

「ウイニャフー」はケチュア語でトウモロコシの芽、つまり美味しい物ということだ。

 長い間待ち続けたのだから、この十数日間の雨季など何でもない。ついに幼いころに本で読んだ神秘の街に行けるのだ。

 その夜はほとんど一睡もできず、翌朝まだ外が真っ暗なうちに、ミシャとエドワードの寝ている部屋のドアをノックした。

 「楽しい旅になりますように! 行って失望しないように祈るよ!」

エドワードが枕に顔を埋めてうつぶせに寝たまま言った。

 「絶対失望するよ。ハハハ」

彼はまた悪戯っぽく笑った。

 「早く行きましょう! 朝ごはんを食べている時間なんかない!」

私はミシャを促した。

早朝六時過ぎの駅は多くの人でごった返し、押し合いへし合いしながら騒いでいる世界中の観光客を見ただけでうんざりした。

 「なんて騒がしいの!」、と私はゆっくり言った。

 「騒がないと楽しく見えないからさ!」

 私はミシャに問い返した。「なにが楽しいっていうのよ?」

 私たちが買ったのは二等席の切符だ。列車に乗って席を見つけ、雨具をラックに置いて私は席に落ち着いた。ミシャは列車を降りてコーヒーショップに行くと言いだした。

 「行けばいい。列車が出発したらいい気味、もう二度と連れて行く機会はないよ」、と私は言った。

 「朝飯も食べさせないなんて厳しすぎるよ!」、とミシャが叫んだ。

 「だったら早く行ってきなさい!」

 あと七分で発車する。ミシャは乗車する人の波に押されながらそそくさと走り降りて行った。

 あのガヤガヤと騒がしい人たちも慌ただしく座席を探している。座席の番号を確認して、なんと私の向かいと右隣の席に陣取った。

 「あ! あいつだ!」

一人のテカテカ光るグリーンのジャケットを着た青年が叫んだ。顔を見合わせ、やっとクスコで初日に同じホテルに泊まっていたあいつだということが分かった。

 「ねえ、ねえ! インディアン娘、元気だった?」

 「笛はちゃんと曲が吹けるようになった?」

私は笑顔とも真顔ともつかない曖昧な表情で返した。

 彼らは私の周りに来て、意地悪くからかうように笑った。両隣には女の子が一人ずついて、またしても足を伸ばして泥だらけの靴を私のきれいな座席に投げ出した。

 「ここは私の席よ!」

私はぐいっとその足を押し戻した。

 「何するのよ!」

その女の子は私を睨みつけると、別の席に移った。

 この集団はもう私にかまってはこなかったが、今度はさっき乗車してきたトウモロコシ売りの少女をからかう声がずっと聞こえてきた。

 その少女は金髪の見知らぬ集団に囲まれ、怯えて今にも泣き出しそうだった。なんとか逃れようとするが行く手を阻まれ、顔を真っ赤にして懸命にかごで抵抗している。

 「行かせてあげたら?」

 力を込めてやつらの肩を押しのけ、子どもの手を引いて助け出し、もう一方の車輌から降りなさいと言った。彼女は重いかごを提げて逃げて行った。

 争いが終わり、互いに敵対し合うムードになった。向かい合って、双方表情を硬くしたまま座っている。

 列車はゆっくりと動き出し、やつらは手をたたいて歓声をあげた。ミシャが急いで戻ってきて、何とか列車に飛び乗った。

 「あれ? あの人たちって……」

ミシャがそっと言った。

 私はため息をついて何も言わなかった。

 おそらくこの四時間近くの道のりを心静かに過ごすことはできないだろう。

列車は「ウルバンバ川」に沿ってゆっくりと進んだ。私は左の窓側に座っていたので、山合の田畑や、牛やアルパカ、草花がはっきりと見えた。

 昨日は左の窓側の座席を是が非でも欲しいという私に、チケット売りの人が訝しげに尋ねた。

「あなた、行ったことがあるの? なぜそちらの景色がいいことを知っているの?」

窓外の景色は私の予想通りであったが、それ以外は全て外れた。嫌気のさす集団に囲まれることまでは予知できなかった。

 この川とクスコ付近の山谷は皆同じくウルバンバと名付けられている。高原からアマゾンのジャングルに入る長い長い急流である。

 列車はゆっくりと、その川の横をぴったりと沿って走っている。急流には大きな波までが立ち、波と波とがぶつかりあって霧のような細かい水飛沫をあげた。雨は上がって、緑の山々と民族衣装を纏ったインディアンが田畑にいる様子は目を愉しませる平和な光景である。農家の建築は同じアンデス山脈でもエクアドルの高原に比べると、 随分と立派だった。

 列車が進むたびに川の水は増えていき、反対側の席の人が溢れそうな水を見るために窓際に近づいて来る。誰かの腕が私の肩を押した。

 「なによ、押さないでくれる?」

私が振り返ってその人を押しのけたために周囲がまた騒々しくなった。

 ミシャはその騒動を見ると、カメラを持って車輌の連結部分に行き戻ってこなかった。

 私は奴らが期に乗じてミシャの空席を奪わないかと心配で、急いで靴を脱ぎ、清潔な分厚いウールの靴下を履いた足を彼の席に置いた。

 遠くの席の他の乗客は、向かい合う座席の真ん中に台を置いてポーカーを始めた。

 私は窓から顔を出して車輌の数を数えた。線路は山裾を抜け、川に沿って大きくカーブしているため、一目で五輌編成だとわかった。一等車が一輌、二等車が四輌で、座席は満席、三七〇人を乗せている。

 百キロ余りの道のりで、一人につき往復二十ドルだ。運賃が高いのはゆっくりと走るからだろう。一時間に二十七、八キロしか進まない。

 マチュピチュは沈黙の遺跡だが、そこを訪れる旅行客は様々で、世界の色々な方言が話されている。

 列車の客室乗務員が気を使い熱いコカ茶を持ってきてくれたので、お金を払う時に何気なく彼に聞いた。

「あの川はいつも波が高いの?」

「そんなことはないと思います、今日はおかしいですね!」

彼は一瞬考え、彼自身も少し躊躇いながら答えた。

 天気は感動的なほど晴れ渡っている。窓にもたれ、涼やかで新鮮な空気を思う存分吸い込み、下の方にいる保線作業員に手を振る。数箇所で怒れる川がレールに咬みつき、波が押し寄せるたびに、枕木の下の土砂が洗い流されていく。

 私は人を押しのけながら車輛のドア外に出て、風に吹かれながら立っているミシャを見つけた。

 「枕木の下が空洞になっているのが見えたの。水が下の路盤を侵食してしまっているみたい」

私は少し心配だった。

 「そんなことにはならないよ。天気はこんなに良いし、多分午後も雨は降らないと思うよ!」

 私は遠くの山のインカ時代に架けられた石橋を見つめた。列車の速度は極めて遅く、その橋を渡らない訳にはいかない。

 「さっきの水位は橋のすぐ下から四つ目の石のところにあったのに、今は一つ分増水して上から三つ目の石のところまできている」

 「見間違いだよ、そんなに急に増えるなんてありえないよ」

私も自分の見間違いだと思った。昨夜は一睡もしておらずかなり眩暈がしたので、自分の席に戻って毛織の上着を枕にして、二座席分を使いそっと横たわった。となりの集団の一人が高山病になり、大声で呻きながら頭を抱えている。私はひとりほくそ笑んだ。彼の仲間は相変わらず黙ることなく騒いでいる。何にあんなに興奮しているのか分からないが、車内でしきりに歓声を上げ大声を上げ続けていた。

 「まだ着きませんか?」と通りかかった車掌に尋ねると、雨季は地盤が悪くゆっくりと走るので五時間はかかる、通常は三時間半で着くのですが、との返事であった。マチュピチュに向かう山道は、前半はバスも通れるが、後半の五十キロは鉄道でしか進めない。このような有名な遺跡なのに、往復十八時間の道のりを除くと、あの青い峰の上での滞在時間はせいぜい二時間。それでは慌ただしすぎる。私は遺跡を見学して下山したら、「アグアス・カリエンテス」という小さな村に泊まり、翌日もう一度登って、夕方になってから列車で戻ることに決めた。雨具を除いて他の荷物は何も持っていない。雨具といっても一枚のビニールシートにすぎない。これならば歩くときに多くの面倒を省ける。

 まもなく訪れる遺跡は、スイス人作家エーリッヒ・フォン・デニケンの著書でも紹介されていた。彼は街の全ての人が謎の失踪を遂げたのは、街を捨てどこかに移ったのではなく、宇宙から来た人が連れ去ったと強く主張している。私には信じられないが、倪(ニー)(クァン)*2ならどう思うだろう? 信じるかどうかはさておき、マチュピチュに向かう道の途中、神秘的なことを心から愛する多くの友人のことがしきりに思い出された。そこに到着したら、彼らの魂に呼びかけ、私と一緒に宇宙の謎を解きに来るか試してみなければ。そんなことを考えているうちに、私の魂の方が先に抜け出してしまったようで、川の水音と列車の奏でるリズムの中、ゆっくりと眠りに落ちた。

 やがて顔に雨水が垂れてきたように感じ、はっと驚いて目を覚ますと、向かい側の乗客がビールを飲みながら濡れた手を振って、私の顔に水を飛ばしていた。私はゆっくりと起き上がって座り、顔を拭いた。相手は緊張しながら私の反応を待っていたが、私はむしろ徹底的に無視することにした。こうなると向こうは非常にきまりが悪い。五時間近いゆっくりとした旅は、向かいの席にいるグループと対峙し続けることにひどく疲れながら過ぎて行った。

 私たちは到着後に山に登るバスのチケットを車内であらかじめ買っておいた。他の乗客が下車後に押し合いへし合いしながらチケットを買っているとき、私はすでにミシャを引っ張って一番早い先頭のバスに乗っていた。マチュピチュは山頂にあり、車はジグザグに進む。この道をもしゆっくりと徒歩で登れば、道端の珍しい草花に目を奪われたことだろう。しかし私にはもうその気力は残ってはいなかった。

 「ここまでは鉄道しかないのに、バスはどうやってきたのですか?」

私はドライバーの後ろに寄りかかり、話をした。

 「列車が運んできたんでしょう!」、と彼が笑った。

 「川は? あなた方は川の水運を使わないのですか?」

私は振り返り、切り立った崖の下の雄叫びを上げるウルバンバ川を眺めたが、川の水はまだ渦を巻いていた。

 「危険すぎます。今日は特に水位が上がっているのが見えませんか」

 二十分近く山道を走り、バスは広場で停まった。同じバスのガイドさんが先に降り、「太陽旅行社のお客様は私と一緒に来てください、はぐれないでくださいね!」、と言った。

 クスコにまで来ながら一人でマチュピチュに来られない人がいるとは意外だ。実際はかなり簡単なことなのに。ツアー客は一組、また一組と見学に行く。二千メートルの高山からでも望むことができるのは山と川だけだ。遺跡はまだ見えない。私たちはもう確実に目的地にいるはずなのに。観光客と一緒にゆっくりと歩いていくと、山の小道に関所が設けられていた。入場券は二種類あり、外国人は五ドルでペルー人は一ドルちょっとだ。

 「なんで国籍によって入場料が違うの?」

 「外国人は金を持っているからね!」、とチケット売りの人が言った。

 「ペルー人は安く旅行ができるのに。私たちは高い旅費をとられたのよ!」

 「旅費が高くても来る、それが金持ちだよ」

それが彼の結論だ。チケット売り場を出ると、神秘の街が山頂のぼんやりと霞がかる平原の上に現れた。本や絵葉書で何百回と見た石壁や切れ切れになった塀にいざ対面すると、やはり言いようもない高ぶりを感じた。かつて私が心の中で何千万回も夢見た神秘の高原。霧雨の中、そこに立ち入った時、無常観がふいに心を捕らえた。振り払おうとしても振り払えない。

 「ミシャ、ここで別れましょう。探さないでね」、と言いながら自分の雨よけのビニールシートを持って、はや足で駆けた。

 観光客の大群が後ろから押し合いながら上がってくる。石の街に続く泥道は一本だけだ。

 私は石作りの低い塀を滑り降り、当時この地の住民が開墾してできた段々畑に歩いていった。今それらの畑には芳しい草が一面に広がり、ズボンの裾をじっとりと濡らす。観光客の前方に素早く先回りし、まだ喧噪に侵されていない石壁と屋根のない小さな部屋を一軒ずつぐるりと見て回った。遺跡全体は青々とした芝生に囲まれ、その緑の寂しさは、他の色で取って代わることはできない。迷路のような石の細道は、曲がり角で観光客と出会いがしらにぶつかってしまいそうだ。風格のある建築物とは言えない。四十分も経たずに遺跡を見終わってしまった。山頂の平原は小さく、これ以上いても、また同じ場所に戻ってきてしまうことだろう。書物にある歴史考証によると、この街は十七世紀までは間違いなく人が住んでいたというが、ならばなぜ突然消えてしまったのか?

 平原の後方には一本の樹も育たない青い頂きがそびえ立ち、捨て去られた荒涼の地を守っている。丘の上の何人かのインディアンが、観光客の頭上の石段から現れ、楽器を吹き鳴らしながらやってきた。私はかがみこんで、演奏者の足元にある空き缶にそっと銅貨を入れてすばやく立ち去った。

 同じ列車で来た人は皆石塀の中に押し寄せていて、ガイドが懸命に彼のお客をまとめようとずっと大声で叫んでいた。

「こちらに来てください! 私に着いてきてください、時間には限りがありますよ――」

 私は街を離れ、人と離れ、別のところにある小さな山に登った。雨の中、マチュピチュと私に距離が生まれた。もうその中にいないからこそようやくその美しさの全てが眼下に現れた。

 長旅で特に何か珍しいものを見ようと計画していた訳ではなかったが、ペルーのマチュピチュと、南方の砂漠にあるナスカ人の残した鳥と動物の巨大な地上絵は、それでもどちらかと言えば一度は見てみたいものだった。マチュピチュは、旅の目的の一つではあったが、この地も数日もしたら記憶の彼方に飛び去ることとなる。永遠に自分の手の中に握っておくことのできる物などないならば、風とともに去らせればいい!

 私は大岩の上に座り、両足であぐらを組んだ。私の推測では、この失われた街は修道院のような場所にすぎなかったのではないか。当時インカ帝国は太陽を崇拝し、メキシコの古代アステカ人あるいはマヤ人のように人を生贄として捧げることはほとんどなかった。しかし、やはり一族の中で最も美しい処女を選び太陽神に捧げ、隔離された場所に閉じ込めたのだ。もし重要な祭祀や祈祷があれば、やはり処女が選ばれ、引き出されて殺された。この都市の空虚さは、恐らくゆっくりと末裔がいなくなり、そして完全に寂れたためだろう。インカ帝国の天文知識、社会組織、道路や建築は非常に整ったものであったが、彼らは全てを精密な結び縄*3で記しており、ケチュア語は文字を持たなかったため、それらの生活の細部を知ることは難しい。それでは吟遊詩人はどうだろう? 歌うたいは絶対にいたはずだ。この神秘の街はなぜ何の物語も残さなかったのだろう? 私は数回深呼吸をし、自分を落ち着かせ、語ることのない自然に対して呼びかけた。もう一つの空間は沈黙を固く守り、ほんの小さなため息のような微波動ですら私に応えるものはなかった。

「アムイ――アムイ――」

ケチュア語を使い「来て!来て!」、と心の中で叫んだ。

 神々は沈黙し、山々は語らない。雲が湧き、雨が吹き、足元の遺跡は白い綿雲に隠れ跡形もない。

「あ……ハロー!」

やはりここまで登ってきた人が向こうからさも愉快そうに挨拶をした。エレーナの食堂で同じテーブルになったことがあるカナダ人だった。

 「あなたも来たの?」

そう聞かれて私は笑って答えた。

 「ずいぶん待たされたよね、ここを見終わったらすぐにボリビアに行く予定!」

 「ここはいいね」、と彼は私の横に座った。気がまぎれ、その人と少し話をすると、詰まっていた呼吸が楽になった。リラックスしたせいか、その場の空気が私個人の強い引力から自由になり、わずかながら反応した。その変化を捉えようとしたとき、横の青年がまた話し始めた。

 「ここにはお化けが出るんだって。下りたほうがいいよ」、と私は羽織っていたビニールシートをひっぱりながら言った。これを聞いて彼は大笑いし、上着を脱いでついた雨をふるい落とし、面白そうに私を見つめた。

 「どうかな、一緒に下りてコーヒーでも飲まない?」、と彼が聞いた。

 「やめておく」。私はそっけなく答え、すぐに「先に行っていて。私も後で行くから。それでもいい?」と付け加えた。

 「それでもいいよ。ここは急に寒くなるから体を冷やさないようにね!」

 彼は適当にあしらわれたと思って、気まずそうに立ち去った。

 細かい雨音がビニールシートの上に落ちる。私以外、また誰もいなくなった。

 何かが来て、私をとり囲んだ。空気が冷たくなり、背筋を冷たいものが通った。

 ――泣かないで、安らかに眠りなさい、もう泣かないで!

 すすり泣く声と嗚咽が鳴りやまず、初めは彼らと言葉を交わすことはできなかった。かわいそうな霊魂、私の友よ、悔しさを吐きだしていいのよ。あなた達に会いに来る人や、あなた達を愛する人は少ないのだから! 霧雨の中、あの川の憤怒の水音が高地の上まで聞こえてくる以外は全てが静かで、落ち着いている。私はもう一つの世界に入った。いつまでもいつまでも静かに座っていた。霧雨は過ぎ、薄い陽光が空を破って表れた。最後の言葉を聞き終ると、その空間にいる魂に心配をさせないようにビニールシートをしまい、山のふもとへ急いだ。

 観光客は皆もう昼食を食べに行っていた。秘密の街では数匹のリャマがまばらにいて草を食んでいた。

 「ミシャ――」

私は叫んだ。

 「ミシャ――ミシャ――ミシャ――」

山が答えた。

 遺跡内をはや足で探したが、あの音楽を奏でていたインディアンが石の上で寝ているのしか見つからなかった。

 「私の連れを見なかった?」

 「あなたは一人できたじゃないか!」

 私は走って神秘の街を離れたが、背中のぞわぞわした感じは私を追いかけてきた。立ち止まり、もう一度陽光に照らされた緑の遺跡を見た。「さよなら!」と心の中でそっと言った。

 「悲しまないで、さようなら!」

 私はもう一度心を落ち着かせた――霊魂、私の友人たちは消え、肩の冷たさもなくなった。

 ミシャはといえば、山の外側にあるレストランでちゃんと昼食をとっていた。

 「早く食べて! 列車に乗ってクスコに帰るんだから」

私は彼のじきに食べ終わるお皿をつついて、しきりに催促した。

 「今日は『アグアス・カリエンテス』に泊まるんでしょ?」

 「今、急に気が変わったの!」

 「まだ三時だよ!」

 「列車は早めに発車するし、待ってはくれないよ!」

 「なぜ分かるの?」

 「それは聞かないでよ。いずれにせよ、分かるのよ」

 間も無く二輌の最終バスも行ってしまう。私はミシャを引っ張って走った。まだ手すりに寄り掛かっていたカナダ人を見つけ、急いで聞いた。

「あなたは下りないの?」

 「多分六時半のあの列車に――」

 「もう一度言うわ、このバスはもうすぐ発車するのよ。早く乗って!」

 私は彼に向かって言ったが、彼は頭を横に振った。私はもう一度言った。彼はやはり動かない。

 「君はどうかしてるんじゃない? 君と旅するのは本当に大変だよ、スケジュールがこんなにコロコロと変わるんだから」

ミシャがバスに飛び乗り、息を切らしながら言った。

 「あのカナダ人は乗らないのかな?」

私は振り返って眺めた。

 「彼の自由だよ!」

 「もう、あの馬鹿――」

私はため息をついて、寄り掛かった。

 バスが停車し、私はチケット売り場へ列車の切符を買いに走った。私に渡された帰りの切符は、なんと来た時と同じ座席番号だった。

 三時二十分、線路周りでは大勢の観光客がまだ土産物を買っていて、乗車しようとしない。

 「乗りなよ! 発車を知らせてはくれないよ!」

私は家族旅行らしい日本人ツアー客に叫んだ。彼らは二人の子どもを連れている。

「まだ二十分あるよ!」、と下の方の人が言った。

 「何をそんなに急いでるの?」

ミシャが理解できない様子で言った。

 その時、列車がゆっくりと動き出した。発車を告げる汽笛の音も何もなく、動き出した。

 下にいた人々は驚き叫び、我先にと乗車した。何人もの人は走って列車を追いかけてきたが乗車できなかった。

 私は車窓にもたれドキドキしながら川の水をじっと見つめた。川の波は岸よりも高く押し寄せている。

 「私、少し寝るね。どこにも行かないでね!」

ミシャにそう言うと、あの青い峰の頂きにある高地をもう一度眺めた。ひんやりとした窓によりかかり、私は目を閉じた。

 

 

訳注

*1 アグアス・カリエンテス

地名。スペイン語では「熱い湯」の意。

*2 倪匡 

香港人SF作家

*3 結び縄

「キープ」とよばれる結縄文字

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