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三毛の中南米紀行 -1-

メキシコ紀行一 大蜥蜴の夜 

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 飛行機がメキシコ首都空港に着陸したとき、私は歩くのもままならないほど消耗しきっていた。長い旅路を、ほかの乗客が寝ている間もずっと本を読んでいたせいだろう。
 私はシートベルトをつけたまま、人々がゆっくりと飛行機から降りてゆくのを眺めていた。窓から見える空港の光は明るく輝いていたが、その周辺はすでに暗くなっている。
 アシスタントのミシャはもう自分の荷物を背負って通路の先で待っている。もはや話す気力もなかったので、小さく頷いて彼の前を通りすぎた。
 友人のヨーガンが税関の中にまで入ってきて、私に向かって手を挙げて出迎えた。私はまず彼に重たいコートを渡し、それから両手を広げて抱き合った。

「ようこそ、メキシコヘ!」、と彼は言った。

「ずいぶん待ったでしょう。出迎えありがとう」
 彼に会うのは今年回目だ。少し多いような気がする。
 後から出てきたミシャに自己紹介を促すと、人とも同時に自分の名前を言った。そして、親し気に握手した。二人が挨拶をしている途中で私は先に歩き出した。
 税関では、他の乗客同様に並ぶ必要も荷物の検査を受ける必要もなかった。私は特別扱いをされるのは好きではないが、ヨーガンは彼の持つ外交特権を享受している。私は彼のこういう性格をよく知っている。
 知り合ってもう十四年経つがヨーガンは変わらない。
「ホテルは予約してくれた?」
 彼は「車に乗ってから話そう」と曖昧に言った。
 つまりホテルは予約していないということだ。台北からかけた二回の国際電話はどうやら無駄だったようだ。
 黒っぽい高級車の前まで来て、ヨーガンは申し訳なさそうに言った。

「ドライバーはもう帰ってしまったけど、家政婦は住み込みだ。うちに来ても不便はないよ」
「あなたの家に泊まるなんて、誰が言ったの?」

私はミシャには分からない言葉を使ってヨーガンに怒鳴った。

「ホテルに移るにしても明日にしよう。ミシャの部屋も用意してある。もちろん浴室もある。誰もあなたを束縛しないし、それに僕の家は静かないい場所にある」

 私は何も言わず、不機嫌な表情を隠さずに車に乗り込んだ。

「ヨーガンは親切じゃないか。どうして飛行機を降りてからずっとご機嫌斜めなの?」

ミシャが後部座席から中国語で言った。

 ミシャを無視して、窓の外の千七百万人が住む都市をじっと眺めた。心がなぜか重たい。

ヨーガンが車を運転しながら「我々は何語で話せばいいのかな?」と聞いた。

「英語でいいわ、ミシャも話せる言葉で」
 そう言った後、となりに停まっている車の窓から髭を蓄えた紳士が微笑みながらこちらを見ているのに気づき、私は思わずスペイン語で叫んだ。
!Buenas noches
mi amigo!こんばんは、私の友達)」
 ヨーガンはこういう行為が大嫌いだけど、私は大好き。彼は面白くなさそうだったが、私の疲れはきれいさっぱりなくなった。
 車が広い並木道の路肩に停まった。守衛が慇懃に出迎え、私たちは車を彼にまかせ、手荷物だけを持ってヨーガンの住むマンションの豪華な真鍮の柱があるエレベーターへ向かった。
 ここはヨーガンがメキシコで半年前から落ち着いている場所である。まるで博物館のように豪華で美しい。小さな森林のような鉢植えが置かれ、アンティーク調のリビングには言い表せないほどの静寂ときらびやかな雰囲気が漂っていた。
 ミシャの部屋は元々ヨーガンの楽器収納室だった。中には古いアコーディオン、オルゴール、オルガン、全世界各地の大小様々な不思議な音を発するものの全てが壁に飾ってあった。

 私はヨーガンに案内されて宝石を飾った中国風屏風や寝室のドアの前を通り過ぎた。さらに曲がるとようやく私のために用意された部屋にたどり着いた。壁面は全部クローゼットで、ベッドの上には何かの大きい動物の毛皮で作られたベッドカバーが静かに私を待ち構えていた。

「どうして私はここなの? 私はミシャの部屋がいい」

私は荷物を投げ出しながら声を荒げた。ヨーガンは「ケンカはしたくない、静かに話そう」と釘をさした。

 私は面倒になってきた。会うまではヨーガンに優しく接しようと思っていたのに、実際に会ったらこんなにも礼儀知らずな自分が嫌になった。この世の中で彼に向かって大声を出せるのは、私のように感謝を知らない人間だけだろう。

ヨーガンが「応接間で少し休まない?」と聞いた。靴を脱ぎ、白靴下のまま客室から出ると、応接間でピンクの制服を着て白いエプロンを掛けたメキシコ人のメイドが待っていた。

「あ、あなたはスザンナね。電話で話したことがある」

私が親しげに彼女の手をとると、彼女は少し右足を曲げて堅苦しく言った。

「何かご用がございましたら……」

ヨーガンは私がスザンナに対してあまりに親しげな態度をとったので、あわててスザンナを追いやった。

私はソファーに座り、ウイスキーをもらった。ミシャが突然グラスを挙げた。

「芸術的で、しかも快適な、豪華な家に!」

ミシャはこの家の格調と雰囲気に魅了されたようだ。称賛と憧れを隠そうとせず素直に口にした。何も間違ってはいない。この家には確かに品格がある。しかし私はミシャが感動しているのを見て、さらにヨーガンに対する不快感が増した。

阿平(ア ピン)、僕の話を少しは聞きなよ。ヨーガンはいい人だよ。なのに君といったら――」

ミシャは我慢できずに中国語で話し始めた。

私は聞こえないふりをして黙っていた。夢から覚めれば「稀代の英雄も英雄であり続けるとは限らない、金持ちもずっと金持ちであるとは限らない」ことを知るだろう。

木彫りの古いティーテーブルの上には私の本が何冊もあった。ヨーガンは私たちに「オリーブの木[1]」のレコードを聞かせようとせわしなく動いていた。ヨーガンが本やレコードをどうやって手に入れたのかわからないが、これも今夜の小道具のひとつなのだろう。私がこういったことを最も嫌うことも知らずに。

ペルシャ絨毯、アラブの長い剣、中国の刺繍、インドの仏像、十八世紀の絵、モダンな彫刻、中世の甲冑、錫で作られた燭台、銀の皿、銅の壷など――よく吟味して選ばれたコレクションばかりだ。

「素晴らしいコレクションね」と嘆息した。

「あと一つ、足りないんだよ。なんだと思う?」

ヨーガンは笑いながら私を見た。彼の目に光るコレクターの貪欲さは隠そうとしても隠しきれない。ようやく彼に対して笑えるようになった顔が、さっと一変した。ため息をついて絨毯に座り、手の甲で背中をさすった。右の肩がこって仕方ない。心の中ではずっと「よく頑張った、もう十分に頑張った。これ以上我慢しなくていい。二日も泊まったらここから出て行こう」と考えていた。

  ヨーガンが電話をかけて友達を呼んでいるのが聞こえた。会うたびに彼は待ちかねたように私を友達に見せびらかす。私はまるで展示品のようだ。

ミシャが中国語で「ヨーガンは優しいやつだ、意地を張らないで、もう少し頑張って」と不安そうに私に囁いた。

私は無言で立ち上がり、哀愁に満ちた曲調の「オリーブの木」を止めた。

まだ旅は始まったばかりなのに、もうややこしいことがメキシコで待っていた。数日中に必ず解決しなければならない。ここで同情心を使う値打ちはない。

ドアの呼び鈴が鳴り、ヨーガンの友達が次々に入って来た。親切で教養ある人たちが持参した十数冊の本とタイプした資料が、私に丁寧に渡された─―全てメキシコの歴史や地理、そして芸術に関連したものだった。

 三時間近く話をしたが、正直に言えば、マドリード大学に通っていたときに、中南米の古代文化やマヤ文化の試験を受けたし、その内容もだいたいは憶えている。しかし、礼儀として我慢してずっと話を聞き続けた──大昔のことばかり!

 彼らは、ここで生きている人々のことや、メキシコでの暮らし、そして街の様子については何も話さない。ただ本の中にある文化や歴史を暗唱しているだけだ。私と彼らの距離はどんどん遠くなっていく。私は講義を聴くために旅に出たわけではない、生きているものを見に来たのだ。

「ごめんなさい、二十時間以上も飛行機に乗っていたので、そろそろ休ませてください。ミシャは私のアシスタントなの。この本は彼にゆっくり見せてあげてくださいな」

 皆と握手して、おやすみを言ってから部屋に戻った。

 ミシャはまだ若く、何を見ても興味を持つ年頃だ。彼にとって新たな環境と価値観が全く違う人との出会いは新鮮で好奇心を満たしてくれる。彼を聞き手として残していこう。私はもうそこに居続けられない。

 真夜中、私は静まりかえった闇の中で目を醒ました。月の光が窓からまっすぐ部屋の中に差し込んでいた。ベッドは本棚の方を向いていて、各国元首の署名付き写真が一列に並び、写真の横には小さな国旗が一つずつささっている。

 こうした偉人の写真と対峙していたら、荷物の中にある小さい写真のフレームを思い出し、誰も理解できないほどの寂しさと孤独が胸に溢れてきた。

 メキシコの最初の夜は、目を開けたまま何を考えるでもなく考えないでもなく過ごした。

 朝七時、私は濡れている髪をタオルで包み、花が飾られ日光があふれるダイニングにヨーガンと座っている。

 スザンナは豊かできちんとした朝食を持ってきた。テーブル・セッティングはとても美しく、まるで映画のように現実感がない。

 「ミシャが起きるのを待たなくていいわ、食べ終わったら仕事に行って」

ヨーガンにコーヒーを入れ、ビタミン剤を渡した。

 ヨーガンは、「ここではタクシーが安全だ、バスは混むからやめておいたほうがいい。水道水は飲めないし、街で売っているカットした果物は不潔だ、五十ドル以下で済むレストランはおなかを壊す可能性が高い。路上で男に話しかけられても相手にするな。危ない場所には近づかないで、カメラはしっかり鞄の中に入れて強盗に気を付けて――」、と話し続けている。

 私が「大都市だから、地下鉄で移動したいけど」と言いかけると、ヨーガンはすぐさま「ダメだ!」と叫んだ。

「女性は地下鉄の車内で乱暴される!」

昼間でも? 千七百万人の大都会で?」

「新聞に書いてあった」

「わかった。それじゃあ、私がメキシコに何をしに来たのか言ってみて」

「博物館に行けばいいじゃないか。それから、ハイヒールを買ってきなさい。今週は私とパーティーに参加する予定だから。テーブルにある六枚の招待状には君の名前もある」

 私は我慢しながら、ゆっくりとトーストにバターを塗った。彼を傷つける言葉を注意深く避けた。その気持ちが影を落として、じわじわと私の心の底からはい上がってきた。

 ヨーガンは出がけに数千ペソを貸してくれた。昨日、空港で両替できなかったからだ。彼はこういうところが気が利いている。

 ミシャの部屋に入ると、彼はまだぐっすりと寝ていた。天真爛漫な大きな子どもみたいだ。これからの旅で何かの役に立つのだろうか?

なぜこんなにも心が晴れないのだろう。右肩の痛みも、精神的なものから来ているのかもしれない。

 スザンナは黙ってテーブルを片付けている。彼女は常に礼儀正しく、微笑みを絶やさず、こちらから声を掛けなければ決して自分からは話しかけない。

「ねえ、スザンナ、ここに三千ペソあるわ。食料品にかかるお金はあなたのご主人が払っているといっても、私たちがここで食事をすれば、あなたに余計な世話がかかるから受け取ってちょうだい。ここを発つときにはまた改めてお礼をするから。いつもありがとう!」

 気前がいいところは最初に見せておくのがよい。お金を先に渡すのは失礼かもしれないが、この世界ではお金をあげることは悪いことではない。

 スザンナはとても嬉しそうに受け取った。これでお互いに幸せだ。
 ミシャも起きてきて、朝食をとっている。私はヨーガンに言われたことを話した。

「じゃあ、どうすればいい? ヨーガンの言う通り、これもダメ、あれもダメってわけ?」

「五十ドル以下の食事は危ないなんて! 田舎者じゃあるまいし、そんなこと信じられる?」。私は笑いとばした。

「ヨーガンの話を信じないの? 彼は頭がいいよ」

ミシャが無邪気に言った。

「彼と知り合って、もう十四年にはなる。かなり特別な友達よ。私が人生の前半を決める時も彼がアドバイスしてくれた。だけど、私は言う通りにしたことがないの」。私はゆっくりと話した。

 ミシャが「結果はどうだった?」と聞き、私は「言う通りにしなくて良かった」と笑った。

「昨夜、君が寝た後、ヨーガンが五週間ほど休暇をとって僕たちと一緒に中米へ行きたいと言ってきた。僕は何も言わなかったから、すべて君が決めていいよ。どうする?」

 私は考え込み、ため息をつきながらつぶやいた。

「私はやっぱり一人で行きたい、彼は必要ない。本当に……」

「一人で? 僕たち二人で仕事をするのに、君は、一人で、って言うんだね。僕のことを何だと思っているの?」

「わからない。あなたは勝手に写真を撮ればいい。本当にわからないわ」

 私はダイニングを出て、浴室で髪の毛を乾かした。蒸し熱い人工的な風がひっきりなしに出てきた。

 ミシャがついてくるのはもちろん構わないが、途中でいなくなってしまっても問題はない。どうせ自分の将来や感情は自分で背負わなければならない。自分以外にその責任を引き受けられる人間がいるだろうか?

 この豪華な屋敷にもう五日も泊まっている。

 日中は、ミシャと私は博物館や街の人ごみの中で過ごした。午後三時を過ぎ、ヨーガンの仕事が終わるころには私も帰った。彼が一緒に旅行するという案については遠慮してもらった。つまらなくなってしまうから。

 台北に送らなければならない翻訳原稿が未完成だったので、旅は始まったけれども、午後は持ってきた仕事に集中しなければならない。人生の半分を旅に費やしたおかげで新しい環境を観察し、徐々に順応することを覚えた。感動や物珍しさを無理に求めなくてもいいし、書くためのネタをわざわざ探す必要もない。旅は私にとってはすでに日常となっていたが、ミシャにとってはそうではなかった。ミシャはうんざりした調子で言った。

 「もうつまらなくて死にそう! 毎日午後になると君はいつも原稿とにらめっこして、夜になればヨーガンとパーティーに出かける。僕だけここに残って何をすればいいの?」

「焦らないで。旅は始まったばかりでしょ。まずはスペイン語を勉強するか、でなければ一人で外に遊びに行きなさいよ」

私は顔も上げず、ゆっくりと原稿を読みながら答えた。

「僕は籠の中。毎日毎日、午後はずっと籠に閉じ込められている……」

「明日まで待って。原稿を書き終わって送ったら一日かけて遠出しましょう。今まで行ったことがない所を見たり、水路でトラヒネラ[2]に乗ったり、バスで南の小さい村にある太陽の神殿や月の神殿まで連れて行ってあげる。それでいい?」

「それは僕のためだけじゃないだろ? どこにも行かなければ、君は何も書けないからだ」

ミシャは怒った。

 私は笑いながら、このアシスタントと名乗る坊やを見た。この長い旅行を、彼はいつまで耐えられるだろう。人生には華やかで美しいことが一体どのくらい待っているというのだろう。決して多くない。ほとんどの時間は平凡に過ぎ去っていくだけだ。

私はあなたに何を教えることができるの? 期待が大きすぎるとがっかりするだけ。

ヨーガンの家から出て、ホテルに移ることを真剣に考えた。彼が纏わり付くのはまだどうにかできる。ただ、自分で経験できることが沢山あるはずなのに、こんな快適な環境に束縛されていては損だと言わざるを得ない。

 ホテルに移ることに決めたが、ミシャには言っていない。彼の口が軽いのを心配したからだ。ヨーガンに対しては、彼の好意を踏みにじり、気持ちを傷つけるだけのことだ。

 まだ五日目だ。焦らなくてもいい。急いで生きても、何も見えもしないし、感じられもしない。

 もしこの夜のことがなかったら、この数日間、私は原稿用紙に向かうことはなかっただろう。この興味深い夜のことを書いたあとに、メキシコのトラヒネラや町で見聞きしたことを紹介しよう。

 私はミシャを残して夜のパーティーに参加することを別に申し訳ないとは感じない。むしろ彼に自分の役割と身分を理解させる必要がある。あまり甘やかすと、彼はこの旅から何も得ることができないだろう。

それに、時には公私の別が必要だ。特に国籍が違うパートナーに対しては、物事への対処の仕方や人間関係の距離のとり方を同国人と同じにはできない。

 その夜のために、スザンナは一日中ずっと料理をしていた。ヨーガンが招いた十数人の客をもてなすためだ。来客の大半はメキシコに駐在している外交官で、現地の人は誰一人招待していない。

 ヨーガンは、頭の固い人間だ。社会階層について憎むべき差別思想にとらわれている。だが、おかしなことに、彼が長年ずっと愛し続けているのは彼とは性格が全く違うアジア女性なのだ。彼はこの矛盾にどうやって気持ちの折り合いをつけているのだろう。さらにそれを最大の誇りとしているのはなぜなのだろう。

 どんなに盛大なパーティーでも、私はいつも白いドレスで参加することにしている。この装いは誰が見てもおかしくないし、シンプルなドレスが不適切だと思う人もいない。私自身、おしゃれに心を砕くことはもはやなく、今ではそれが普通になっている。

 その夜リビングに行くと、すでに四、五人の客人が思い思いの場所で酒を飲んでいた。知っている顔ばかりだった。何度かパーティーに出たが、いつも同じ顔ぶれだった。

 男性客の中では、ミシャだけが淡いブルーのシャツを着ており、ダークスーツを着ている中年の人たちの中では、彼がとても幼く、困惑と興奮と緊張が入り交じった表情に見える。傍からこの子どもを見ていると、心の底から申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。まるで苛めのようだ。彼はこのパーティーを結構気に入っているようだが、少し気の毒に思えた。

 大勢の来客がいたが、サビーナが入って来ると話し声は突然やんだ。この女性には五日間で三回も会っている。彼女の隣にいる夫は、優雅で厳かな様子に私は良い印象を抱いた。彼は文化参事官である。

 彼女自身はシルバーグレーの装いでクジャクのようにまばゆい光を四方に放ち、人々の注目を浴びていた。だが、私はこの中年女性が酒を飲むのを見ると、恐ろしくなる。パーティーのたびに酔っぱらったサビーナはいつも狂気じみた振る舞いをするのだ。今夜の彼女の獲物は誰だろう?

 私たちは上品に食べ、酒を飲み、音楽を聞き、笑い話をしたり各国の事情について話したりしていた。しかし親しい友人ではないので、世間話程度しかできない。皆はミシャに気を使って、できる限り英語を使った。

 こういう集まりはとても退屈で単調だ。いつもは一時間ほどで失礼して帰ることにしている。ヨーガンは先に私を家まで送りとどけて、自分一人で戻っていく。帰りは何時になるかわからない。私が帰った後、パーティーがいつどう終わったのか聞いたこともない。

 しかし、その日はヨーガンの家が会場となったので途中で帰ることはできなかった。

 招待客の中に私がとても気に入っている友人が一人いて、ふいに思いついたようにニューヨークに行った吸血鬼が人の血を吸えなかったという映画の話をしはじめた。街の人たちに血が通っていなかったので、吸血鬼は空腹のあまりハンバーガーを食べに行くしかなかったという。この話は私を少し喜ばせた。こういう話なら楽しめて、まだ耐えられる。

 サビーナは遠くでクッションに埋もれていた。彼女は頭の半分を他人の夫の肩にもたれかけ、その男性の妻はひたすら料理を食べている。

 数人のグループが政治について論争を始め、私はリビングでおしゃべりをしていた。ヨーガンは私の向かいに座り、真剣な顔をして、まるで私を食べてしまいそうな憎しみと愛を込めて私を見つめていた。

 夜が更け、強い酒が出てきた。室内にはタバコの煙が漂い、男女の笑い声も艶を帯びてきて、開放的な雰囲気になってきた。人々は上着を脱ぎ、音楽が更に大きくなった。私は疲れて退屈し、ただ眠りにつきたかった。

 すでに酔いの回ったサビーナが突然かん高い声で叫びだした。

「子どもたちが憎いわ。私の生活も、青春も、自由も奪って行った。体の線も崩れてしまった。ほら、見てよ!」

 彼女の隣にいた男性がさっと立ち去った。

「さあ、誰か来て! 私と踊りましょう」

彼女はリビングに立って両腕を広げた。唇を半開きにし、目の焦点が定まらず、形容しがたい欲望が激しく噴き出していた。私は突然気づいた。彼女は飢えた獣だ。このメキシコの神秘的な夜に狩りをはじめたのだ。

 私が気に入っている夫婦もここで早々に帰り支度を始め、全員の頬にキスをして、おやすみの挨拶をしてからドアの外へ消えた。

吸血鬼の話をした髭の男性が私の頬を軽く指でつついた。

「いい子だから、もう少し楽しそうにしなさい。パーティーなんだから!」

 客人を見送ってリビングに戻ると、大きな鉢植えの陰に、サビーナが淡いブルーのシャツを両手できつく抱いてこちらに背を向けてじっとしているのが見えた。

 私はゆっくり彼らの横を通りすぎてソファーに座った。タバコを一本取りだし、火を探そうとしたとき、サビーナの夫が私の隣にさっと近づいて、火をつけてくれた。炎を通して互いに目があったが、何も話さなかった。

 照明が暗くなり、音楽が止まったが、誰も気にしていないようだ。まだ幼さの残るポニーテールがヨーガンの首にしがみつき、泣き笑いしながらかき口説いている。

「結婚なんて虚しいわ。自分がいったい誰なのかもわからなくなった。ねえ、慰めて」

 別のところでは、「楽しむって、どういうこと? 教えてよ、楽しむってどういうこと?」、と男に囁いている女がいる。

 リビングから人がいなくなり、ベッドルームのドアがひとつずつ閉じていく。

 ベランダに出る勇気はない。きっと誰かが抱き合っている。物陰や、花壇の後ろ側で何が起こっているのか。どんな欲望が渦巻いているのだろう。

 残された三人はソファーに座っている。人当たりの良い博士―、彼の妻は別の男と消えた。サビーナの夫―、冷静にパイプを吸っている。そして、私だ。私たちはメキシコのインディアン集落の文化と習俗について話していたが、緊張して話は進まなかった。話に集中できる状況ではなかったし、私はおそらく失望と疲れでひどい表情をしていたに違いない。もう一本タバコを出すと、サビーナの夫がまた火をつけながら軽く言った。

「吸い過ぎだよ」

この夜に対する嫌悪感を無理に隠すのはやめることにした。どさっとソファーの背にもたれ、あからさまにうんざりした様子を見せた。

サビーナの夫が「ミシャを探しにいこうか?」と言って立ち上がろうとした。妻が自らに与えている苦痛を一切顔に出さず、逆に隣の私を気遣っている。だが、私はミシャに何の責任があるというのだろう。

「いえ、やめて。お願いだから」と言いながら私は彼の袖をつかんで引き止めた。

人は自由な生き物だ。自分の生き方は自分で選択すればいい。ミシャ、あなたも例外ではないわ!

 サビーナが千鳥足で戻ってきた。ロッキングチェアにぶつかり、大きな鉢植えの上に倒れ掛かった。彼女の服は乱れ、顔は半分ほど髪に覆われ、靴はなくなり、目は閉じている。ミシャは一緒ではなかった。

私たちは何も言わず、息をひそめて耐えた。だが、実のところ、彼女のこの様子には妖しい美しさがあった。まるで巨大な爬虫類かメキシコ大蜥蜴のように私たちに向かって生臭い息を吐きかけている。

またしばらくすると、博士の妻が、気でもふれたかのように弾けもしない楽器をめちゃくちゃに鳴らしながら楽器部屋の中から出て来た。すさまじい騒音が凍り付いていた夜を一気に引き裂いた。パーティーはこうして終わった。

ああ、このように煌びやかで狂おしく、人を惑わせる艶めかしい夜はロマン・ポランスキー監督の映画のシーンでしか見られないだろう。

 私は、メキシコ大蜥蜴がずっしりとした巨体でマンションのベランダから入って来て、屋内に差し込む月光の下で手足を広げ、目を半ば閉じて、満足げに私たちを飲み込む姿を想像した。

パーティーは終わったが、洗面所では二人の客が酔いつぶれ、ヨーガンは自分の寝室の絨毯の上に寝ていた。私は彼らに触れないように気をつけながら、歯を磨き、洗顔し、そして部屋の窓を全て開け放って風を通した。そして髪を梳くブラシを持ったまま一部屋一部屋とドアを開けてミシャを探した。

ミシャは書斎の毛皮の上に座っていた。手にカメラを持ち、無表情にカシャカシャとシャッターを押している。

私は髪を梳かしながら、「ミシャ?」と声をかけた。

「何もなかった、本当だ」。ミシャは淡々と答えた。

「いいのよ。別に大したことじゃないし」

「だから、何もなかったんだ!」。彼は叫んだ。

「もし私がいなかったら、どうなっていた?」

ミシャは黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「サビーナは可哀相だ」

「別に可哀相なんかじゃない」

「阿平、君は冷たいね」

私はその言葉に反応せず、ゆっくりと髪を梳かし続けた。

「全く、ひどい夜だった」。ミシャが大きく息をついた。

「抵抗した?」と私は笑いながら聞いた。ミシャは笑わず、ただ頷いた。

「世間知らずのお坊っちゃん、もし本当に何かあったら、どうするつもりだったの?」。私は立ち去ろうとした。

「阿平……」

「明日の朝になったら、ここを出ましょう。ホテルはもう電話で予約してある。メキシコのこんな生活はここでおしまいにしましょう。ね?」

一九八一十一十五日 メキシコにて


[1]原題は橄欖樹(ガンランシュー)。一九七九年、三毛が作詞し、台湾の歌手、齊豫(チーユー)が歌って大ヒットした歌謡曲。

[2] ソチミルコの運河に見られる鮮やかな色に塗られた観光用の小型木造船。

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