« 2011年10月 | トップページ | 2016年6月 »

三毛の中南米紀行 -1-

メキシコ紀行一 大蜥蜴の夜 

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158729.html

 飛行機がメキシコ首都空港に着陸したとき、私は歩くのもままならないほど消耗しきっていた。長い旅路を、ほかの乗客が寝ている間もずっと本を読んでいたせいだろう。
 私はシートベルトをつけたまま、人々がゆっくりと飛行機から降りてゆくのを眺めていた。窓から見える空港の光は明るく輝いていたが、その周辺はすでに暗くなっている。
 アシスタントのミシャはもう自分の荷物を背負って通路の先で待っている。もはや話す気力もなかったので、小さく頷いて彼の前を通りすぎた。
 友人のヨーガンが税関の中にまで入ってきて、私に向かって手を挙げて出迎えた。私はまず彼に重たいコートを渡し、それから両手を広げて抱き合った。

「ようこそ、メキシコヘ!」、と彼は言った。

「ずいぶん待ったでしょう。出迎えありがとう」
 彼に会うのは今年回目だ。少し多いような気がする。
 後から出てきたミシャに自己紹介を促すと、人とも同時に自分の名前を言った。そして、親し気に握手した。二人が挨拶をしている途中で私は先に歩き出した。
 税関では、他の乗客同様に並ぶ必要も荷物の検査を受ける必要もなかった。私は特別扱いをされるのは好きではないが、ヨーガンは彼の持つ外交特権を享受している。私は彼のこういう性格をよく知っている。
 知り合ってもう十四年経つがヨーガンは変わらない。
「ホテルは予約してくれた?」
 彼は「車に乗ってから話そう」と曖昧に言った。
 つまりホテルは予約していないということだ。台北からかけた二回の国際電話はどうやら無駄だったようだ。
 黒っぽい高級車の前まで来て、ヨーガンは申し訳なさそうに言った。

「ドライバーはもう帰ってしまったけど、家政婦は住み込みだ。うちに来ても不便はないよ」
「あなたの家に泊まるなんて、誰が言ったの?」

私はミシャには分からない言葉を使ってヨーガンに怒鳴った。

「ホテルに移るにしても明日にしよう。ミシャの部屋も用意してある。もちろん浴室もある。誰もあなたを束縛しないし、それに僕の家は静かないい場所にある」

 私は何も言わず、不機嫌な表情を隠さずに車に乗り込んだ。

「ヨーガンは親切じゃないか。どうして飛行機を降りてからずっとご機嫌斜めなの?」

ミシャが後部座席から中国語で言った。

 ミシャを無視して、窓の外の千七百万人が住む都市をじっと眺めた。心がなぜか重たい。

ヨーガンが車を運転しながら「我々は何語で話せばいいのかな?」と聞いた。

「英語でいいわ、ミシャも話せる言葉で」
 そう言った後、となりに停まっている車の窓から髭を蓄えた紳士が微笑みながらこちらを見ているのに気づき、私は思わずスペイン語で叫んだ。
!Buenas noches
mi amigo!こんばんは、私の友達)」
 ヨーガンはこういう行為が大嫌いだけど、私は大好き。彼は面白くなさそうだったが、私の疲れはきれいさっぱりなくなった。
 車が広い並木道の路肩に停まった。守衛が慇懃に出迎え、私たちは車を彼にまかせ、手荷物だけを持ってヨーガンの住むマンションの豪華な真鍮の柱があるエレベーターへ向かった。
 ここはヨーガンがメキシコで半年前から落ち着いている場所である。まるで博物館のように豪華で美しい。小さな森林のような鉢植えが置かれ、アンティーク調のリビングには言い表せないほどの静寂ときらびやかな雰囲気が漂っていた。
 ミシャの部屋は元々ヨーガンの楽器収納室だった。中には古いアコーディオン、オルゴール、オルガン、全世界各地の大小様々な不思議な音を発するものの全てが壁に飾ってあった。

 私はヨーガンに案内されて宝石を飾った中国風屏風や寝室のドアの前を通り過ぎた。さらに曲がるとようやく私のために用意された部屋にたどり着いた。壁面は全部クローゼットで、ベッドの上には何かの大きい動物の毛皮で作られたベッドカバーが静かに私を待ち構えていた。

「どうして私はここなの? 私はミシャの部屋がいい」

私は荷物を投げ出しながら声を荒げた。ヨーガンは「ケンカはしたくない、静かに話そう」と釘をさした。

 私は面倒になってきた。会うまではヨーガンに優しく接しようと思っていたのに、実際に会ったらこんなにも礼儀知らずな自分が嫌になった。この世の中で彼に向かって大声を出せるのは、私のように感謝を知らない人間だけだろう。

ヨーガンが「応接間で少し休まない?」と聞いた。靴を脱ぎ、白靴下のまま客室から出ると、応接間でピンクの制服を着て白いエプロンを掛けたメキシコ人のメイドが待っていた。

「あ、あなたはスザンナね。電話で話したことがある」

私が親しげに彼女の手をとると、彼女は少し右足を曲げて堅苦しく言った。

「何かご用がございましたら……」

ヨーガンは私がスザンナに対してあまりに親しげな態度をとったので、あわててスザンナを追いやった。

私はソファーに座り、ウイスキーをもらった。ミシャが突然グラスを挙げた。

「芸術的で、しかも快適な、豪華な家に!」

ミシャはこの家の格調と雰囲気に魅了されたようだ。称賛と憧れを隠そうとせず素直に口にした。何も間違ってはいない。この家には確かに品格がある。しかし私はミシャが感動しているのを見て、さらにヨーガンに対する不快感が増した。

阿平(ア ピン)、僕の話を少しは聞きなよ。ヨーガンはいい人だよ。なのに君といったら――」

ミシャは我慢できずに中国語で話し始めた。

私は聞こえないふりをして黙っていた。夢から覚めれば「稀代の英雄も英雄であり続けるとは限らない、金持ちもずっと金持ちであるとは限らない」ことを知るだろう。

木彫りの古いティーテーブルの上には私の本が何冊もあった。ヨーガンは私たちに「オリーブの木[1]」のレコードを聞かせようとせわしなく動いていた。ヨーガンが本やレコードをどうやって手に入れたのかわからないが、これも今夜の小道具のひとつなのだろう。私がこういったことを最も嫌うことも知らずに。

ペルシャ絨毯、アラブの長い剣、中国の刺繍、インドの仏像、十八世紀の絵、モダンな彫刻、中世の甲冑、錫で作られた燭台、銀の皿、銅の壷など――よく吟味して選ばれたコレクションばかりだ。

「素晴らしいコレクションね」と嘆息した。

「あと一つ、足りないんだよ。なんだと思う?」

ヨーガンは笑いながら私を見た。彼の目に光るコレクターの貪欲さは隠そうとしても隠しきれない。ようやく彼に対して笑えるようになった顔が、さっと一変した。ため息をついて絨毯に座り、手の甲で背中をさすった。右の肩がこって仕方ない。心の中ではずっと「よく頑張った、もう十分に頑張った。これ以上我慢しなくていい。二日も泊まったらここから出て行こう」と考えていた。

  ヨーガンが電話をかけて友達を呼んでいるのが聞こえた。会うたびに彼は待ちかねたように私を友達に見せびらかす。私はまるで展示品のようだ。

ミシャが中国語で「ヨーガンは優しいやつだ、意地を張らないで、もう少し頑張って」と不安そうに私に囁いた。

私は無言で立ち上がり、哀愁に満ちた曲調の「オリーブの木」を止めた。

まだ旅は始まったばかりなのに、もうややこしいことがメキシコで待っていた。数日中に必ず解決しなければならない。ここで同情心を使う値打ちはない。

ドアの呼び鈴が鳴り、ヨーガンの友達が次々に入って来た。親切で教養ある人たちが持参した十数冊の本とタイプした資料が、私に丁寧に渡された─―全てメキシコの歴史や地理、そして芸術に関連したものだった。

 三時間近く話をしたが、正直に言えば、マドリード大学に通っていたときに、中南米の古代文化やマヤ文化の試験を受けたし、その内容もだいたいは憶えている。しかし、礼儀として我慢してずっと話を聞き続けた──大昔のことばかり!

 彼らは、ここで生きている人々のことや、メキシコでの暮らし、そして街の様子については何も話さない。ただ本の中にある文化や歴史を暗唱しているだけだ。私と彼らの距離はどんどん遠くなっていく。私は講義を聴くために旅に出たわけではない、生きているものを見に来たのだ。

「ごめんなさい、二十時間以上も飛行機に乗っていたので、そろそろ休ませてください。ミシャは私のアシスタントなの。この本は彼にゆっくり見せてあげてくださいな」

 皆と握手して、おやすみを言ってから部屋に戻った。

 ミシャはまだ若く、何を見ても興味を持つ年頃だ。彼にとって新たな環境と価値観が全く違う人との出会いは新鮮で好奇心を満たしてくれる。彼を聞き手として残していこう。私はもうそこに居続けられない。

 真夜中、私は静まりかえった闇の中で目を醒ました。月の光が窓からまっすぐ部屋の中に差し込んでいた。ベッドは本棚の方を向いていて、各国元首の署名付き写真が一列に並び、写真の横には小さな国旗が一つずつささっている。

 こうした偉人の写真と対峙していたら、荷物の中にある小さい写真のフレームを思い出し、誰も理解できないほどの寂しさと孤独が胸に溢れてきた。

 メキシコの最初の夜は、目を開けたまま何を考えるでもなく考えないでもなく過ごした。

 朝七時、私は濡れている髪をタオルで包み、花が飾られ日光があふれるダイニングにヨーガンと座っている。

 スザンナは豊かできちんとした朝食を持ってきた。テーブル・セッティングはとても美しく、まるで映画のように現実感がない。

 「ミシャが起きるのを待たなくていいわ、食べ終わったら仕事に行って」

ヨーガンにコーヒーを入れ、ビタミン剤を渡した。

 ヨーガンは、「ここではタクシーが安全だ、バスは混むからやめておいたほうがいい。水道水は飲めないし、街で売っているカットした果物は不潔だ、五十ドル以下で済むレストランはおなかを壊す可能性が高い。路上で男に話しかけられても相手にするな。危ない場所には近づかないで、カメラはしっかり鞄の中に入れて強盗に気を付けて――」、と話し続けている。

 私が「大都市だから、地下鉄で移動したいけど」と言いかけると、ヨーガンはすぐさま「ダメだ!」と叫んだ。

「女性は地下鉄の車内で乱暴される!」

昼間でも? 千七百万人の大都会で?」

「新聞に書いてあった」

「わかった。それじゃあ、私がメキシコに何をしに来たのか言ってみて」

「博物館に行けばいいじゃないか。それから、ハイヒールを買ってきなさい。今週は私とパーティーに参加する予定だから。テーブルにある六枚の招待状には君の名前もある」

 私は我慢しながら、ゆっくりとトーストにバターを塗った。彼を傷つける言葉を注意深く避けた。その気持ちが影を落として、じわじわと私の心の底からはい上がってきた。

 ヨーガンは出がけに数千ペソを貸してくれた。昨日、空港で両替できなかったからだ。彼はこういうところが気が利いている。

 ミシャの部屋に入ると、彼はまだぐっすりと寝ていた。天真爛漫な大きな子どもみたいだ。これからの旅で何かの役に立つのだろうか?

なぜこんなにも心が晴れないのだろう。右肩の痛みも、精神的なものから来ているのかもしれない。

 スザンナは黙ってテーブルを片付けている。彼女は常に礼儀正しく、微笑みを絶やさず、こちらから声を掛けなければ決して自分からは話しかけない。

「ねえ、スザンナ、ここに三千ペソあるわ。食料品にかかるお金はあなたのご主人が払っているといっても、私たちがここで食事をすれば、あなたに余計な世話がかかるから受け取ってちょうだい。ここを発つときにはまた改めてお礼をするから。いつもありがとう!」

 気前がいいところは最初に見せておくのがよい。お金を先に渡すのは失礼かもしれないが、この世界ではお金をあげることは悪いことではない。

 スザンナはとても嬉しそうに受け取った。これでお互いに幸せだ。
 ミシャも起きてきて、朝食をとっている。私はヨーガンに言われたことを話した。

「じゃあ、どうすればいい? ヨーガンの言う通り、これもダメ、あれもダメってわけ?」

「五十ドル以下の食事は危ないなんて! 田舎者じゃあるまいし、そんなこと信じられる?」。私は笑いとばした。

「ヨーガンの話を信じないの? 彼は頭がいいよ」

ミシャが無邪気に言った。

「彼と知り合って、もう十四年にはなる。かなり特別な友達よ。私が人生の前半を決める時も彼がアドバイスしてくれた。だけど、私は言う通りにしたことがないの」。私はゆっくりと話した。

 ミシャが「結果はどうだった?」と聞き、私は「言う通りにしなくて良かった」と笑った。

「昨夜、君が寝た後、ヨーガンが五週間ほど休暇をとって僕たちと一緒に中米へ行きたいと言ってきた。僕は何も言わなかったから、すべて君が決めていいよ。どうする?」

 私は考え込み、ため息をつきながらつぶやいた。

「私はやっぱり一人で行きたい、彼は必要ない。本当に……」

「一人で? 僕たち二人で仕事をするのに、君は、一人で、って言うんだね。僕のことを何だと思っているの?」

「わからない。あなたは勝手に写真を撮ればいい。本当にわからないわ」

 私はダイニングを出て、浴室で髪の毛を乾かした。蒸し熱い人工的な風がひっきりなしに出てきた。

 ミシャがついてくるのはもちろん構わないが、途中でいなくなってしまっても問題はない。どうせ自分の将来や感情は自分で背負わなければならない。自分以外にその責任を引き受けられる人間がいるだろうか?

 この豪華な屋敷にもう五日も泊まっている。

 日中は、ミシャと私は博物館や街の人ごみの中で過ごした。午後三時を過ぎ、ヨーガンの仕事が終わるころには私も帰った。彼が一緒に旅行するという案については遠慮してもらった。つまらなくなってしまうから。

 台北に送らなければならない翻訳原稿が未完成だったので、旅は始まったけれども、午後は持ってきた仕事に集中しなければならない。人生の半分を旅に費やしたおかげで新しい環境を観察し、徐々に順応することを覚えた。感動や物珍しさを無理に求めなくてもいいし、書くためのネタをわざわざ探す必要もない。旅は私にとってはすでに日常となっていたが、ミシャにとってはそうではなかった。ミシャはうんざりした調子で言った。

 「もうつまらなくて死にそう! 毎日午後になると君はいつも原稿とにらめっこして、夜になればヨーガンとパーティーに出かける。僕だけここに残って何をすればいいの?」

「焦らないで。旅は始まったばかりでしょ。まずはスペイン語を勉強するか、でなければ一人で外に遊びに行きなさいよ」

私は顔も上げず、ゆっくりと原稿を読みながら答えた。

「僕は籠の中。毎日毎日、午後はずっと籠に閉じ込められている……」

「明日まで待って。原稿を書き終わって送ったら一日かけて遠出しましょう。今まで行ったことがない所を見たり、水路でトラヒネラ[2]に乗ったり、バスで南の小さい村にある太陽の神殿や月の神殿まで連れて行ってあげる。それでいい?」

「それは僕のためだけじゃないだろ? どこにも行かなければ、君は何も書けないからだ」

ミシャは怒った。

 私は笑いながら、このアシスタントと名乗る坊やを見た。この長い旅行を、彼はいつまで耐えられるだろう。人生には華やかで美しいことが一体どのくらい待っているというのだろう。決して多くない。ほとんどの時間は平凡に過ぎ去っていくだけだ。

私はあなたに何を教えることができるの? 期待が大きすぎるとがっかりするだけ。

ヨーガンの家から出て、ホテルに移ることを真剣に考えた。彼が纏わり付くのはまだどうにかできる。ただ、自分で経験できることが沢山あるはずなのに、こんな快適な環境に束縛されていては損だと言わざるを得ない。

 ホテルに移ることに決めたが、ミシャには言っていない。彼の口が軽いのを心配したからだ。ヨーガンに対しては、彼の好意を踏みにじり、気持ちを傷つけるだけのことだ。

 まだ五日目だ。焦らなくてもいい。急いで生きても、何も見えもしないし、感じられもしない。

 もしこの夜のことがなかったら、この数日間、私は原稿用紙に向かうことはなかっただろう。この興味深い夜のことを書いたあとに、メキシコのトラヒネラや町で見聞きしたことを紹介しよう。

 私はミシャを残して夜のパーティーに参加することを別に申し訳ないとは感じない。むしろ彼に自分の役割と身分を理解させる必要がある。あまり甘やかすと、彼はこの旅から何も得ることができないだろう。

それに、時には公私の別が必要だ。特に国籍が違うパートナーに対しては、物事への対処の仕方や人間関係の距離のとり方を同国人と同じにはできない。

 その夜のために、スザンナは一日中ずっと料理をしていた。ヨーガンが招いた十数人の客をもてなすためだ。来客の大半はメキシコに駐在している外交官で、現地の人は誰一人招待していない。

 ヨーガンは、頭の固い人間だ。社会階層について憎むべき差別思想にとらわれている。だが、おかしなことに、彼が長年ずっと愛し続けているのは彼とは性格が全く違うアジア女性なのだ。彼はこの矛盾にどうやって気持ちの折り合いをつけているのだろう。さらにそれを最大の誇りとしているのはなぜなのだろう。

 どんなに盛大なパーティーでも、私はいつも白いドレスで参加することにしている。この装いは誰が見てもおかしくないし、シンプルなドレスが不適切だと思う人もいない。私自身、おしゃれに心を砕くことはもはやなく、今ではそれが普通になっている。

 その夜リビングに行くと、すでに四、五人の客人が思い思いの場所で酒を飲んでいた。知っている顔ばかりだった。何度かパーティーに出たが、いつも同じ顔ぶれだった。

 男性客の中では、ミシャだけが淡いブルーのシャツを着ており、ダークスーツを着ている中年の人たちの中では、彼がとても幼く、困惑と興奮と緊張が入り交じった表情に見える。傍からこの子どもを見ていると、心の底から申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。まるで苛めのようだ。彼はこのパーティーを結構気に入っているようだが、少し気の毒に思えた。

 大勢の来客がいたが、サビーナが入って来ると話し声は突然やんだ。この女性には五日間で三回も会っている。彼女の隣にいる夫は、優雅で厳かな様子に私は良い印象を抱いた。彼は文化参事官である。

 彼女自身はシルバーグレーの装いでクジャクのようにまばゆい光を四方に放ち、人々の注目を浴びていた。だが、私はこの中年女性が酒を飲むのを見ると、恐ろしくなる。パーティーのたびに酔っぱらったサビーナはいつも狂気じみた振る舞いをするのだ。今夜の彼女の獲物は誰だろう?

 私たちは上品に食べ、酒を飲み、音楽を聞き、笑い話をしたり各国の事情について話したりしていた。しかし親しい友人ではないので、世間話程度しかできない。皆はミシャに気を使って、できる限り英語を使った。

 こういう集まりはとても退屈で単調だ。いつもは一時間ほどで失礼して帰ることにしている。ヨーガンは先に私を家まで送りとどけて、自分一人で戻っていく。帰りは何時になるかわからない。私が帰った後、パーティーがいつどう終わったのか聞いたこともない。

 しかし、その日はヨーガンの家が会場となったので途中で帰ることはできなかった。

 招待客の中に私がとても気に入っている友人が一人いて、ふいに思いついたようにニューヨークに行った吸血鬼が人の血を吸えなかったという映画の話をしはじめた。街の人たちに血が通っていなかったので、吸血鬼は空腹のあまりハンバーガーを食べに行くしかなかったという。この話は私を少し喜ばせた。こういう話なら楽しめて、まだ耐えられる。

 サビーナは遠くでクッションに埋もれていた。彼女は頭の半分を他人の夫の肩にもたれかけ、その男性の妻はひたすら料理を食べている。

 数人のグループが政治について論争を始め、私はリビングでおしゃべりをしていた。ヨーガンは私の向かいに座り、真剣な顔をして、まるで私を食べてしまいそうな憎しみと愛を込めて私を見つめていた。

 夜が更け、強い酒が出てきた。室内にはタバコの煙が漂い、男女の笑い声も艶を帯びてきて、開放的な雰囲気になってきた。人々は上着を脱ぎ、音楽が更に大きくなった。私は疲れて退屈し、ただ眠りにつきたかった。

 すでに酔いの回ったサビーナが突然かん高い声で叫びだした。

「子どもたちが憎いわ。私の生活も、青春も、自由も奪って行った。体の線も崩れてしまった。ほら、見てよ!」

 彼女の隣にいた男性がさっと立ち去った。

「さあ、誰か来て! 私と踊りましょう」

彼女はリビングに立って両腕を広げた。唇を半開きにし、目の焦点が定まらず、形容しがたい欲望が激しく噴き出していた。私は突然気づいた。彼女は飢えた獣だ。このメキシコの神秘的な夜に狩りをはじめたのだ。

 私が気に入っている夫婦もここで早々に帰り支度を始め、全員の頬にキスをして、おやすみの挨拶をしてからドアの外へ消えた。

吸血鬼の話をした髭の男性が私の頬を軽く指でつついた。

「いい子だから、もう少し楽しそうにしなさい。パーティーなんだから!」

 客人を見送ってリビングに戻ると、大きな鉢植えの陰に、サビーナが淡いブルーのシャツを両手できつく抱いてこちらに背を向けてじっとしているのが見えた。

 私はゆっくり彼らの横を通りすぎてソファーに座った。タバコを一本取りだし、火を探そうとしたとき、サビーナの夫が私の隣にさっと近づいて、火をつけてくれた。炎を通して互いに目があったが、何も話さなかった。

 照明が暗くなり、音楽が止まったが、誰も気にしていないようだ。まだ幼さの残るポニーテールがヨーガンの首にしがみつき、泣き笑いしながらかき口説いている。

「結婚なんて虚しいわ。自分がいったい誰なのかもわからなくなった。ねえ、慰めて」

 別のところでは、「楽しむって、どういうこと? 教えてよ、楽しむってどういうこと?」、と男に囁いている女がいる。

 リビングから人がいなくなり、ベッドルームのドアがひとつずつ閉じていく。

 ベランダに出る勇気はない。きっと誰かが抱き合っている。物陰や、花壇の後ろ側で何が起こっているのか。どんな欲望が渦巻いているのだろう。

 残された三人はソファーに座っている。人当たりの良い博士―、彼の妻は別の男と消えた。サビーナの夫―、冷静にパイプを吸っている。そして、私だ。私たちはメキシコのインディアン集落の文化と習俗について話していたが、緊張して話は進まなかった。話に集中できる状況ではなかったし、私はおそらく失望と疲れでひどい表情をしていたに違いない。もう一本タバコを出すと、サビーナの夫がまた火をつけながら軽く言った。

「吸い過ぎだよ」

この夜に対する嫌悪感を無理に隠すのはやめることにした。どさっとソファーの背にもたれ、あからさまにうんざりした様子を見せた。

サビーナの夫が「ミシャを探しにいこうか?」と言って立ち上がろうとした。妻が自らに与えている苦痛を一切顔に出さず、逆に隣の私を気遣っている。だが、私はミシャに何の責任があるというのだろう。

「いえ、やめて。お願いだから」と言いながら私は彼の袖をつかんで引き止めた。

人は自由な生き物だ。自分の生き方は自分で選択すればいい。ミシャ、あなたも例外ではないわ!

 サビーナが千鳥足で戻ってきた。ロッキングチェアにぶつかり、大きな鉢植えの上に倒れ掛かった。彼女の服は乱れ、顔は半分ほど髪に覆われ、靴はなくなり、目は閉じている。ミシャは一緒ではなかった。

私たちは何も言わず、息をひそめて耐えた。だが、実のところ、彼女のこの様子には妖しい美しさがあった。まるで巨大な爬虫類かメキシコ大蜥蜴のように私たちに向かって生臭い息を吐きかけている。

またしばらくすると、博士の妻が、気でもふれたかのように弾けもしない楽器をめちゃくちゃに鳴らしながら楽器部屋の中から出て来た。すさまじい騒音が凍り付いていた夜を一気に引き裂いた。パーティーはこうして終わった。

ああ、このように煌びやかで狂おしく、人を惑わせる艶めかしい夜はロマン・ポランスキー監督の映画のシーンでしか見られないだろう。

 私は、メキシコ大蜥蜴がずっしりとした巨体でマンションのベランダから入って来て、屋内に差し込む月光の下で手足を広げ、目を半ば閉じて、満足げに私たちを飲み込む姿を想像した。

パーティーは終わったが、洗面所では二人の客が酔いつぶれ、ヨーガンは自分の寝室の絨毯の上に寝ていた。私は彼らに触れないように気をつけながら、歯を磨き、洗顔し、そして部屋の窓を全て開け放って風を通した。そして髪を梳くブラシを持ったまま一部屋一部屋とドアを開けてミシャを探した。

ミシャは書斎の毛皮の上に座っていた。手にカメラを持ち、無表情にカシャカシャとシャッターを押している。

私は髪を梳かしながら、「ミシャ?」と声をかけた。

「何もなかった、本当だ」。ミシャは淡々と答えた。

「いいのよ。別に大したことじゃないし」

「だから、何もなかったんだ!」。彼は叫んだ。

「もし私がいなかったら、どうなっていた?」

ミシャは黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「サビーナは可哀相だ」

「別に可哀相なんかじゃない」

「阿平、君は冷たいね」

私はその言葉に反応せず、ゆっくりと髪を梳かし続けた。

「全く、ひどい夜だった」。ミシャが大きく息をついた。

「抵抗した?」と私は笑いながら聞いた。ミシャは笑わず、ただ頷いた。

「世間知らずのお坊っちゃん、もし本当に何かあったら、どうするつもりだったの?」。私は立ち去ろうとした。

「阿平……」

「明日の朝になったら、ここを出ましょう。ホテルはもう電話で予約してある。メキシコのこんな生活はここでおしまいにしましょう。ね?」

一九八一十一十五日 メキシコにて


[1]原題は橄欖樹(ガンランシュー)。一九七九年、三毛が作詞し、台湾の歌手、齊豫(チーユー)が歌って大ヒットした歌謡曲。

[2] ソチミルコの運河に見られる鮮やかな色に塗られた観光用の小型木造船。

| | コメント (0)

三毛の中南米紀行 -2-

メキシコ紀行二  街並み http://www.kanunu8.com/book3/7180/158730.html

 今回の旅行ではどんなことが起こるか全く予測がつかない。「万里の道を行き、万巻の書を読む」時代ではないとはいえ、私は一応の事前準備をしてから出発した。先ず関連資料を読んでから旅に出て、自分の実体験で裏付けるというのが私のいつものやり方だ。

今回は中南米関係の旅行案内書を四冊持ってきた。ガイドブックにある宿泊施設リストから安くて地の利のよいホテルを見つけ出すのは難しくなかった。

メキシコの首都に到着して六日経ったとき、「エル・ヘラルド・デ・メヒコ」(El Heraldo de México)という新聞に私の写真が掲載された。記事には私の著作には関する内容はなかった。

 大きな顔写真が新聞に掲載された日、私は髪をおさげに結ってジーパンを履き、生活スタイルが極端に合わない友人宅に書き置きを残して別れを告げ、こっそりと中級ホテルに移動した。

 ホテルは市の中心の大きな並木道にあり、伝統的なスペイン植民地様式の建築で、壁が白く窓枠が黒い。素朴で地味な宿だが、清潔で実用的だ。料金もリーズナブルだ。浴室付きの部屋が一泊七百ペソ(およそ二十七ドル)で朝食はつかない。ガイドブックには他にも一日ドル程度のホテルも載っていたが、地図を見ると、その区域は市の中心からかなり離れており、治安も良くなさそうだった。そこまで節約することもないだろう。

 助手のミシャは言葉が通じないために仕事と生活の両方で支障をきたしている。この点については彼にスペイン語に力を入れろと何度も注意し、私を頼りっきりにせず、自分ひとりで街に出るよう励ました。

 メキシコシティは海抜二千二百四十メートルの高地に位置する周囲二百平方メートルあまりの大都市だ。ここに来た当初は、おそらく高度に慣れないためだろう、右耳が酷く痛み、鼻血が出て、ひどく疲れやすくなった。この症状は一週間すぎた頃には徐々に治まってきた。

 生まれてこのかた千七百万人の大都市に住んだことはない。毎晩、明かりを消して横たわった後にパトカーや救急車のサイレンがうるさく行き交って夜の静寂を破る。絶え間ない騒音に大都市特有の圧迫感を覚えたが、私は却って好ましくさえ感じていた。

 

美しい顔

 ホテルに移った日にタクシーを利用したが、それ以降は最初のうちはバスを使っていた。その後、四方八方に通じる地下鉄に乗るようになってからは、他の移動手段に頼ることはなくなった。

 私が見たほとんどのメキシコ人は、神様が手でこねて作ったきめの粗い泥人形だ。細かい彫を入れず、釉薬もかけず、だいたいの形ができたら、太陽に晒して乾かしてから地上に下ろす。これが地下鉄で見る最も一般的な庶民の姿である。

ここの人類学博物館では古代のこの土地の住民についてこう説明していた。彼らは子どもの額と後頭部を板で挟んで何年も圧迫し、頭を扁平に変形させる。板を外すと顔も大きくなったように見え、彼らの美的感覚ではそれが美しいのだという。

 現在のメキシコ人もそのような顔をしている。扁平な顔、濃い眉、大きな目、大きい鼻、厚い唇。それほど清潔とは言えないが、鮮やかな色合いの美しい虹のような服を着て、ぼんやりとした大人しそうな表情をしている。彼らの体にはメキシコの血以外にスペイン人の血も混ざっているが、外見はやはりヨーロッパ人とは異なり、インディアンにより近い。

 私はしばしば混雑した地下鉄に乗った。目的地はあるにせよ、時間は十分にあるので、芸術の極みに達したその顔つきを観察するために乗り過ごしてまた戻ってもかまわない。

 人は時に残酷なものだ。地下鉄内で見かけるのは大半が貧しい人々で、服装も洗練されているとは言いがたい。そういう老若男女の顔を、私は「芸術的な美」と呼ぶ。彼らにとっては大きな皮肉に感じられるかもしれない。

 メキシコシティには毎日、五百人から二千人が仕事を求めて地方から流れ込んでくる。仕事にあぶれて公園や街頭に座っている人の表情は、旅人の目にはどの顔も深刻そうに見える。だが私の観察と彼らが抱える空きっ腹に何の関係があるだろうか。

 

イシュタム[1]

 教会と博物館にはすでに飽き飽きしていたが、メキシコの国家人類学博物館は世界で最も充実した博物館の一つだと聞いて、文化人としての自分に申し訳が立つように仕方なく見学に行った。

 一回目はスペイン語ガイドについて行ったが、館内を早足で駆け抜けることを強要された。ガイドが人類史、特にメキシコの部分を立て板に水でまくし立てたせいで、入る前には知っていたはずのことが、出てきたときにはさっぱり分からなくなってしまった。

 結局、後日あらためて訪問し一日かけて見学した。メキシコは一流の国家ではないかもしれないが、このような堂々とした博物館を見ると、ある程度の敬意が生まれる。

 メキシコの太陽のピラミッド、月のピラミッドの時代はたかだか二千年あまり前のことだ。彼らのマヤ文化はもとより光り輝いているが、中国と比べれば特に古くは感じない。

 博物館の展示は素晴らしい。詳しい説明がついており、展示品は細かく分類され、壁画一枚にいたるまで丁寧に紹介されている。館内の説明は全てスペイン語である。計画段階で他言語を用いないことを決めたのだろうが、見学に訪れるのはほとんど外国人なのにスペイン語のみで表示している意味が私には未だに納得できない。

 メキシコには多くの古代の神々がいて、想像力豊かな多神教民族であることを物語っている。キニチ・アハウ(太陽の神)、イシュ・チェル(月の神)、フラカン(風の神)、チャク(雨の神)の他にも多くの神々がいる。もしかしたら、地理環境と天災が多発することによって、当時の人は万物に魂があるという概念を自然に受け入れ、このような大自然を畏敬する信仰を生んだのかもしれない。中でも私が一番好きな神はヤム・カァシュ(トウモロコシの神)とイシュタム(自殺の神)の二神だ。トウモロコシは私の大好物で、トウモロコシの神がいるということ自体に非常に親近感を持った。

 ガイドは指示棒で一枚の壁画を指しながら、神の名を次々に数えあげていく。その中でふと耳にした「イシュタム」という名に衝撃を受けた。小走りでガイドを追いかけながら、古代の自殺神には一体どんな役割があるのか、人に自殺を許すのか、自殺をする人を受け入れるのか、はたまた人を自殺させるのかということを矢継ぎ早に質問した。ガイドはそれには答えず、笑いながら私に言った。

「自殺神によほど興味があるようですね。もっと影響力があって神話にも出てくる神のことは知りたくありませんか?」

 二回目の博物館見学は自分でゆっくりまわった。自殺神を子細に観察したところ、彼自身が絵の中で木に吊るされていることが分かった。世界中のどんな宗教でも自殺は許されない。ここにだけ、書物にも出てこないこの小さな神がいる。彼らの宗教がこのような神を創造するほど人類の意志を最大限に尊重しているとは思いもよらなかった。とても興味深く意味深い。

メキシコの神の石刻の顔はじっと見るとどれも魔物のようだ。こう言うと様々な神には本当に申し訳ないのだが、彼らは悪意と強さを感じさせる。和やかさや永遠の安定と未来への希望は全くない。彼らは人の魂を懲罰するもので、慈悲深い神ではない。正直に言えば、心中さして気分が良い訳でもなく、これらの神々にただ恐れだけを感じる。当時の人類がこの土地で苦しみながら必死で生きたからこそこのように荒っぽい顔の神と神話が生まれたのだろうか。

 

ピラミッド

 当然のことながら、私たちは今もスペイン語で「ピラミッド」と呼ばれている太陽の神殿と月の神殿を見に行かない訳にはいかなかった。考証によると、紀元前二百年から紀元九百年のテオティワカンの時代の文明で、現在も米州に残る壮観な遺跡である。もとは古い城で、太陽と月の神殿というのは後世の人が付けた名称だ。外観はエジプトのピラミッドによく似ているが、中には通路もなく、王の陵墓もない。それぞれの時代の人類文明と古代都市建築を深く理解するため、私は事前に幾晩もかけて関連資料を読んだ。

ミシャと私は何度も乗り換えてようやく「アナワックの谷」という場所にあるテオティワカンのピラミッドに着いた。太陽が照りつけるピラミッドは、物売り、土産物屋、観光バス、大音量で流れる流行の音楽と世界各地から来た賑やかな観光客のせいで台無しにされてしまっていた。

太陽の神殿は六四メートルの石段の上にある。肩を並べて登っていく観光客はまるで映画が終わって一斉に出てくる人の群れのように見える。手にした携帯音楽プレイヤーからはアメリカ音楽が流れてくる。

 私は遥か遠くに座って人々を眺めた。ミシャの赤いシャツは高い石段にいる人の群れの中でも相変わらず鮮やかだった。

 その日の見物は何も収穫がなかった。観光客がうじゃうじゃいる所は世界中どこもほとんど変わらない。

 ミシャが太陽の神殿を頑張って登っている時、私は行商の自転車を借り、古代に何故そんな名が付けられたか分からない「死者の大通り」という広い道の廃墟に向かってゆっくりと漕いで行った。

 夜になってからもう一度神殿に行こうと思ったのだが、交通の問題で残念ながら再訪はできなかった。

 申し訳ないが、街並みとそこで暮らす人々の顔のほうが観光地のピラミッド神殿より興味をそそる。マヤ文化の廃墟については、ホンジュラスのコパンに行ったときに見る機会を残しておこうと計画した。

 

雑巾を食す

 道ばたの屋台で手のひら大に焼いたトルティーヤ[2]を初めて見かけたとき、私はすっかり嬉しくなった、それがメキシコ人の主食「タコス」だと知ってすぐに味見をしてみた。屋台の女性は、私が差し出した手のひらに薄く伸ばして焼いた生地をのせ、その上に何かを混ぜ合わせた餡のような具を載せた。生地で具を包んで食べ終わったときには、ソースが肘までたれていた。

 タコスには多くの種類があるが、外側の小さい春巻の皮のような生地はどれも同じく薄い黄土色をしている。具は大鍋で煮込んだ肉やソーセージ、何だか分からないもの、想像もつかないものもある。味を変えたければ、中の具を変えれば良い。

 中華料理やイタリアのパスタ、デンマークのデニッシュといった、タコス以外を食べられるのは市内では観光地だけだ。実際、私たちが市内から離れた小さい町に行くと「タコス」以外の食べ物は何もなかった。市外数百里の小さい町で食べた、生まれてから数十個目の「タコス」は、においと形がまさに雑巾のようだった。食べ残しを包み込んで汁が滴る黄土色の雑巾のような物を手づかみで口の中に押し込み、飲み込んだ。

 「タコス」は一つ数セントから一ドル五十セントで、値段は地区と中身によって違う。一つ食べるだけでうんざりするが、満腹にはならない。だが、これはこれで悪くない。市内の高級レストランで食べればその十倍から十五倍はとられるからだ。私は十分に資金を持っていたが、郷に入れば郷に従えで、最後までずっと「タコス」を食べ続けるつもりだった。しかしアシスタントのミシャにとっては非常に苦痛で、食べる度に必ず「また雑巾か!」と嘆いた。

 メキシコ滞在の最後の日、ミシャがあまりに元気を失くしてしまうことが心配で、中華料理を食べに行くことに同意したが、豪華なレストランではなく、寂れた街角にあるものを選んだ。まず春巻を二つ頼んだ。私たちの目の前に置かれたそれは、「春巻」とは名ばかりの、どう見てもどう食べても、ただ油で揚げただけの二つの「タコス」だった。

 メキシコの食は一般に貧しく、文化がない。あえてタコスの長所をあげるとすれば、箸やナイフやフォークがなくても手で簡単に食べられるところだ。衛生面については、なるべく考えないほうが良い。

 

代わり映えのしない商品

 市内の観光地では「ポンチョ」と呼ばれる美しいマントを見かける。割合に値段がはるものだが、実際には一枚の分厚い生地にすぎず、真ん中に首を入れる穴が開いているだけだ。防寒にはとても役立つ。以前、ポンチョを二、三枚ほど持っていたが、友人が気に入ったので全てプレゼントしてしまった。街の市場でとても綺麗なものを見つけたが、観光客用に高値がつけられた商品を買う気にはなれなかった。そこで、長距離バスで市外の小さい町に行くことに決めた。ミシャには、田舎に行くのは写真を撮って欲しいからだと言ったが、実は綺麗で郷土色のある「ポンチョ」を安く買って着ようという密かな目的があった。数百里もバスに揺られて服を買いに行くのは全く愚かな行為だ。しかも女性しかやらない。生憎、私は愚かで、しかも女なのだ。

 地図にも載っていない片田舎の町に着くと、絵に描いたような貧しさと乱雑さが目に入った。あちこち歩き回ってやっと資料で目星をつけていた定期市が大きな広場で開かれているのを見つけた。売っているものといえば、魔法瓶に鏡、人工皮革のジャケット、ほうろうびきの鍋、茶碗、皿、コップ、ナイロン百パーセントの服、ビーチサンダル、ボールペン、口紅、マニキュア、イヤリング、ブレスレットやネックレスなどである。

 私はあちこちの露店で「ポンチョはない? どうして売ってないの?」と尋ね歩いた。返ってくる答えはみな同じだ。彼らはカラフルなナイロンの服を持ち上げて「これが流行りだよ。どう?、綺麗でしょ! 買っていきなよ」と私に呼び掛けるのだった。

 

水上の花園

 もとは大きな沼沢だった場所が現在は一部が町になり、一部にはくねくねと曲がった水路が残されて水上の花園となっている。最初は自分たちだけで舟を漕ぎに行くつもりで、日曜日のフリーマーケットを見てから長距離バスで行く計画を立てた。友人のヨーガンは、私がきっと朝のマーケットで現地の人たちに混じってうろうろしているだろうと予想し、私たちを探しに来た。私とミシャはまんまと彼に見つかってしまった。そして、私たちは長距離バスに揺られることなく大型乗用車に乗って、観光客向けのあまり楽しくないプログラムに参加することになった。

 トラヒネラは様々な色で派手な模様の描かれた木造船で、台湾の碧潭(ビータン)という湖の大型遊覧船よりも少し大きく、船内に椅子を並べている。メキシコ人はみな太陽の子どもだ。彼らが使う色は濃く華やかで、水面に映る影の色も固まったように変わらない。

 ガイドブックには貸し船の料金は二十五ドルで、水路を漕ぎ終わるのに二時間かかると書いてあった。船頭は大型乗用車で来た外国人を見て五十ドルだとふっかけてきた。私はヨーガンの厚意は全て断り、新聞社の経費だけでまかなうことにしていたので、価格交渉を開始した。すぐに四十ドルになったが、もちろんまだ値切れる。値切りも芸術の一種なのだが、残念なことに私の鷹揚な友人はひどく恥ずかしがってもう粘りたくないと言いだしたため、新聞社の経費を浪費してトラヒネラに乗った。

 三人は舟に乗って木偶のように黙り込み退屈していた。私はそれに耐えきれず船尾に出て船頭と話をして仲良くなり、彼が操っていた長い竿は私の手に預けられた。長い竿を力いっぱい動かすと、狭い水路ではしばしば他の船と衝突する。私は愉快な気分になり、ひたすら漕ぎ進んだ。何も特別なところのある水路ではないが、音楽を奏でる船、色鮮やかな花、ブランケットやタペストリー、食べ物などを売る小舟がひしめき合って活気にあふれている。観光客向けのプログラムでも、長い竿を手に握っていると、まるで自分が船頭になったようで、現地に溶け込んだ気分になれた。

 その日は、ヨーガンも高級レストランに行くことができず、仕方なく手を使ってミンチ肉や生野菜をトルティーヤに挟んで「タコス」にして食べた。水路で近くに来た船からも軽食を沢山買った。もちろん船頭にも一緒に食べようと差し入れをした。

 水上の花園観光は、船着き場に戻って私が太いロープを陸に投げて下船し、ロープを鉄の輪にしっかりともやい結びをしてようやく終了した。自分が手を動かして関わったことは、たとえ小舟を一艘動かしただけでもとても楽しかった。不思議なことに、一緒に行った二人の男は試しに漕いでみることに興味すら示さなかった。

 

何を求めて祈るのか

 またもや日曜日、メキシコの最後の一日になった。私はミシャに、今日は安息日だから教会に行くと言った。

 メキシコに来て「グアタルーペ教会」に行かないのはいかにも惜しい。聞くところによると、一五三一年に聖母がこの地方に三回も姿を現し、現在ではすでに新旧七つの教会が建っている。「グアタルーペの聖母」はカトリック信者なら知らない者はない。大事な親戚や友人たちが気がかりだったので、神に私の遠く離れた家族への加護を求めるため、教会でしばらく静かに祈りたいと思った。

 私たちは地下鉄に乗り、市の北東へ向かった。駅を出て、波のように移動している人たちについて行った。彼らはみな聖母に向かって歩いているのだ。

 新しく建った市教会は近代的な巨大建築の一つで、室内が広すぎるため神父が拡声器でミサを行っている。外の広場はまるでサッカーができるくらい大きい。広場では男たちが長い羽飾りをつけ上半身裸で飛び跳ねながら、彼らの古代神を祭る踊りをしている。太鼓の重低音と拡声器でカトリックの聖書を読み上げる声が重なる。珍しい文化の融合である。外国人観光客はおらず、市内だけでなく市外からも色々な形の大型バスでメキシコ人たちがここの神に祈りを捧げに来る。

 広場といくつかの教会を回ったが、周りがうるさくて落ち着いて座って祈ることができなかった。トウモロコシの神を祭る踊りは人の気持ちをざわざわと落ち着かなくさせる。広場のあちこちに色とりどりの人の群れが集まっている。

 私は神父が拡声器を使って話している新しい教会のほうへ歩いて行った。農村から来たらしい夫婦連れがいた。二人のそばには埃っぽいカゴが置いてある。おそらく遠くから来たのだろう。カゴの中に丸めた服が入っていた。この二人は、混んでいて入れない教会の外に黙って跪いていた。私に背を向け、教会の中の聖母に向かってまっすぐ静かに跪き、少しも動かなかった。十数分後に、私が一周して帰ってきたときも、彼らの姿勢は最初と同じだった。

 ミシャは二人の後ろ姿をこっそり写真に撮った。私はそれを見ながら涙が溢れてきた。夫の手はずっと妻の肩を抱いている。妻は片手を夫の腰にまわしている。二人は聖母の前で永遠の夫婦であった。私はうつむいて涙を拭った。聖母が私の失った連れ合いを返してくれる引き換えに私たちが一対の石像になるまで一生あなたの前で跪くことを求めても私はその幸せを選ぶだろう。

 広場の新鮮な空気を吸いたくなって私は一人で立ち去った。人ごみを離れないうちに、何度も視界が涙に霞んだ。

 石段にいる多くの人々の中に、一人の中年男性が膝を使ってゆっくり這っていく姿が見えた。両手でズボンの裾を高く引きあげ、数歩這うごとに顔を引きつるように歪めている。私が視線を落とすと、彼の両膝は血だらけになっており、破けたズボンの生地から傷だらけの肉が見えた。まるで牛の挽肉で作った団子のようになっている。これも聖母に祈りを奉げる方法のひとつだとは知ってはいても、やはりショックのあまり喉が詰まり、走って逃げたくなったが、完全に身動きが取れなくなり、ただじっと男性を見ていることしかできなかった。その男性の十数歩後ろには彼の家族らしき一団がやはり這いながら従っており、彼らの膝は全て血だらけだった。白髪の婦人、二十歳そこそこの若者、十数歳の女の子、更に小さい女の子は苦痛に耐えられず兄の腕に縋ってはいるが、もはや立ち上がることもできないようだ。この一家には明らかに一人欠けている。その男性の妻、白髪の婦人の娘、そして子どもたちの母が──。彼女はどこにいるのだろう、病院のベッドでもうすぐ息を引き取りつつあるのだろうか、今まさに亡くなろうとしているのだろうか。彼女の家族は祈るほかにすべがなく、このような方法で神の奇跡を願いに来たのだろうか?

 この人たち、ボロボロの服で聖母に向かって這っている可哀想な一家の、血の痕が残る石畳の広場を見て涙が溢れ出し、ついに何歩か走ってその場を逃れ、袖で目を押さえた。あまりに大きなショックを受けたために、石段に座ったが喉が詰まって声が出せなくなった。

 あの人たちの歪んだ表情、血だるまの膝、苦しみを受けた魂、救いを求めるやり方、それらの全てが腹立たしかった。

 愚かな人たち! 何を求めているの?

 ああ! 聖母マリア、降りてきて下さい! あの憐れな人々を見て下さい! 彼らはあなたに向かって自らの命すら投げ出して祈り、奇跡を求めています。そして、その奇跡は肉体のある人間にとって、決して贅沢なものではないのです。なのにあなたは、どこにいるのですか? 聖母さま、何が見えますか?

 日が落ちて、教会の大きな鐘が鳴り響きはじめたが、広場では数人の人たちが、まだゆっくりと這っていた。

 私は、夕焼けが広がる空を仰ぎ見ていたが、空は何も話さない。一九八一年のメキシコ、ある日曜日の午後のことである。

 



[1]マヤ神話に登場する自殺を司る女神。

[2]トウモロコシの粉で作る薄焼きパン。現代では小麦粉で作る同様のものもトルティーヤと呼ばれている。

| | コメント (0)

三毛の中南米紀行 -3-

青い鳥の辿りつけない場所  ホンジュラス紀行 

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158731.html

メキシコからホンジュラスへのフライトはわずか二時間、私たちはホンジュラスの首都テグシガルパの飛行場に降り立った。

飛行機を降りるとすぐ銃を担いだ軍人が見えた。生まれて初めての経験というわけではなかったが、やはり軍服を恐れる癖は直らない。私にとって軍服は一種の静かな権力の象徴だ。この気持ちは自分でもどうにもならない。パスポートチェックを受けるため列に並んでいた時、私は一人の軍人と黙って対峙し、お互いにじろじろ睨み合っていたが、結局私が先に笑ってしまった。それにつられて彼も笑ったので、近づいて行って一言二言世間話をしたおかげで少し心が軽くなった。

寂れた税関で、入国審査を待つ旅行客もまばらだった。そこで出会ったアメリカ人はエルサルバドルに流れこんできた難民を連れて国境のはずれまで仕事をしに行くそうだ。アメリカ人に旅の目的を聞かれ、私はただ旅行をして見聞きしたことを原稿に書くだけだと言った。こういう人に会うたびに、自分の生き方は身勝手だと感じる。

私たちは鎖で仕切られたガラス張りのゲートの中にいたが、審査が終わった順に一人ずつ審査済み証明書を軍人に見せて空港から出た。ミシャと私は外に出たとたんに沢山の物売りに取り囲まれた。両替をするだの、スーツケースを持つだの、タクシーを呼んでやるだのと言ってきて、さらには足を抱えて靴を磨こうとする人までいた。初入国にして直ちにホンジュラスの生活の厳しさを目の当たりにさせられたのだ。私はミシャに荷物の傍に座っているように言い置いて、自分で両替しに行った。旅客サービスカウンターにも行き、前もってガイドブックで調べておいたホテルに電話をしてもらうよう頼んだ。

ホンジュラスの首都には世界的チェーンホテルは四、五軒しかない。こうしたホテルは豪華で設備も完備している。しかしローカルなホテルに泊まることもできる。当然のことだが、一泊十ドルでは風呂付の部屋や温かい湯は期待できない。

 この国の貨幣は「レンピラ」と呼ばれている。これはもともと十六世紀スペイン人との和平交渉の最中に殺されたインディアンの大酋長のことだ。今日までホンジュラスの人々は彼の名を幾度となく語り――そして貨幣となった。二レンピラは一ドルだ。

 飛行場から市内までタクシーでは十二レンピラだったのでミニバスを探したが、車掌がドアの横に立っているようなバスは十二人しか乗れず、すでに満席だった。そこで再びタクシー乗り場に戻って交渉し、大酋長六枚まで値切って乗車した。

西暦一五〇三年、コロンブスがホンジュラス北部の海岸に上陸した時、港の水深からその土地の名を「ホンジュラス」と名付けた。スペイン語で「深い」という意味だ。

発展途上国とか先進国とかいう呼び名は好きではない。結局のところそれぞれの民族にはそれぞれの生活スタイルがあるだけであって、そもそも建国の条件からして不平等なのである。そうはいっても、車で六キロ走って見たホンジュラスはどこも寂れて哀愁が漂っていた。そして、インディアンの言葉で「銀の山」という意味を持つ三十万人の首都も貧しそうだった。ここは中米で二番目に大きな都市で、面積は十一万二千八十八平方キロメートル、四十五パーセントが山脈に覆われ、人口は今のところ三百万人ほど、蔗糖やコーヒー、バナナ、綿花、それとわずかな金と錫を産し、牛肉の輸出も始めているようだ。

 ホテルに着くとベッドが一つあるだけで他の家具は何もなかった。廊下に四角いテーブルがあったので、私はそれをもってきて、書き物をする場所を確保した。ミシャがベッドの上でノミが跳ねていると言ったので見に行くと、毛布は確かに汚かったが虫は見つからなかった。おそらく彼の心理的なものが作用したのだろう。確かにそのホテルを最初に見たときには少なからず怖じ気づいた。

街中にあるレストランはかなり値段が高い。ここの国民の収入から考えたら、こんな値段で生きていけるのだろうかと疑問を持つほどだ。道を歩けば物乞いにつきまとわれる。

初日の夜、洗面所の水道水を飲んでひどい目にあった。恐らく大腸菌に汚染されていたのだろう。激しい嘔吐と下痢が止まらず、ベッドから起き上がれるようになったのは二日後だった。ホテルで死にかけているとき、ミシャは中国から来た同胞がやっている「マヤ商店」に行って熱いお湯をもらってきてくれた。もしあの時のお湯と人参茶が私を救ってくれなかったら、あと二日間は起き上がれなかっただろう。

 三十万人の首都は特に見どころはなかった。十六世紀初頭には小さな鉱山町だったこの場所には今でもスペイン植民地様式の教会や建築物が残り、街道の一部には依然として石畳のものもある。街中にはいくつもの中華料理屋や雑貨屋がある。我が同胞はあらゆる機会を逃さず世界各地で生活している。ホンジュラスのような貧しく暗い土地にさえ定住しているのを見ると、なんとも言い表しがたい感情がこみあげる。

 この地の純粋な先住民であるマヤの末裔を見つけることはできない。九割は混血で褐色の肌をしている。その他に北部の海岸から来た黒人が少数いる。彼らは街で仲良く暮らしている。山岳地帯の都市は全体的に乱雑で無秩序ではあるが、塵の中に浮かぶ建築物に目を凝らすと美しい。狭い石畳の古い通り、赤や黄、青や緑に塗られた子どもが描いた絵のような家には芸術的な美しさがあるとしか言いようがない。だがこの街に滞在中、常に悲しみと息苦しさを感じた。たぶん全ての建物の色が濃すぎるのと道が汚すぎるために息の詰まるような不快感を覚えるのだろう。だがキラキラとした都会の煌めきはまた別物だ。ホンジュラスの首都の夜は濃密で決して淡く溶けることのない夢のようだ。ほの暗い夢の中で、色とりどりでありながら薄ぼんやりとした狭い路地を迷い歩く。手を伸ばして人に物乞いをするかわいそうな子どもの顔と足音が悲しげにつきまとう。

ここでは純白の車体に赤いラインを入れた大きなバスが街中を走っている。様々な色と形のバスがひっきりなしに人を乗せているので交通機関は意外にも便利で早い。私が特に気に入った美しいバスは童話の題名から名付けられている――「青い鳥」だ。青い鳥は幸福の象徴であり、人々のたどり着けない夢として描かれたが、ホンジュラスの町では頻繁に行き交っている。

 私は広場のベンチに座って地図をひろげた。その晩は、選挙の広報車が党の旗を掲げて大音量で音楽を流しながら行ったり来たりしていた。小さな屋台は首を長くして客を待ちわび、一人のホームレスが私の足元でぐっすりと寝ている。物乞いの老女が街角で叫んでいる。どうやら仕事にありつけていない何人かの靴磨きの子どもが通行人を追いかけて数枚の銅貨を稼ごうとしている。向かいの大教会の階段からきちんとした見なりをした幸福な家族がミサを終えて出てくる様子も時おり見えた。

 こんな失楽園の絵のような街を「青い鳥」という一台のバスがゆっくりと通り過ぎていく。幸福が目の前を通り過ぎ走り去っていく。広場にいる全ての生きとし生けるものは、私を含めこのバスには乗ることができない。

「あなたの行きたい場所には、青い鳥に乗っても辿りつけない」。長距離バスの人は穏やかに言った。

 ホンジュラス国内では千四百キロを旅する計画だ。手段はもちろん長距離バス。実際、青い鳥ではそこまで辿りつけないことは知っていた。なぜならこれから行く小さな町と村落は現地の人以外だれも目を向けないような所だから。

 そこはグアイマカでたった一軒のホテルだった。中庭を囲む建築様式のホテルには井戸がある。花壇が植えられ、鶏が飼われ、主人一家の洗濯物が干してある。子どもが廊下で追いかけっこをし、女は炊事洗濯をし、つばの両側を巻き上げた帽子をかぶった四人の男たちはトランプを囲んでいる。私は中庭で静かに中国語の本を読んでいた。腸炎が治ったばかりだったので、一日目は首都から百キロも離れていないこの町に泊まることにした。

 平屋の天井板は既に朽ちていた。小さな黒い虫が次々に部屋の中に落ちてくる。ベッドの上には毛布はなく、白いシーツにはびっしりと虫がいて、防ぎきれない。

「僕はこのベッドでは寝られないよ」。ミシャが部屋から出てきて言った。

「大丈夫、夜はシーツの下で寝ればいい」。私は振り向きもせず言い放った。

 気温がやけに低い。この毛布もくれない小さなホテルは、宿泊費が一部屋二十レンピラで虫が雨のように降ってくる。だがここがこの町で唯一の宿なのだから仕方がない。

ホテルの人たちに二日目に行く予定の、車で七、八時間の渓谷、マラガという原住民の村について尋ねたが誰も知らないようだ。彼らはずっとラジオのサッカー中継を聞いていてあまり話したくなさそうだった。

この町はホンジュラスの旧都だが、テグシガルパに銀鉱山が見つかって現在の首都になった。一本の長い大通り、数十件の小さな店、なくてはならないスペイン大教会、数十件のレストラン。これが唯一の風景だ。もちろん、申し訳程度にマヤの文物を並べた所謂「博物館」という小さな建物もあった。

私たちはこの町の一軒の雑貨店の裏に暗い食堂を探しあてた。料理は選べない。老女が煮崩れた豆と二塊の固い肉、それに現地特産のブラックコーヒーを出して六レンピラ受け取った。三ドルに相当する金額だ。同じものを食べていた警官も同じ金額を払っていた。

 新聞社がくれた金は潤沢ではあったが、ホテルにしても食堂にしてもこのレベルにしてはやはり高すぎる。さらに、ここの写真フィルムの値段の高さには気が滅入る。ミシャはメキシコからフィルムを一巻持ってきたが、私たちのカメラは三台あるのだ。

 夕暮れ時、私たちは特に目的もなく街中をゆっくり散策していた。その時、教会から大きな鍵の束を持った老人が出てきたのを見つけて私は早足で彼のほうに向かった。

「行こう、ミシャ。面白そうよ、塔の上に登らせてもらおう!」。

老人は私たちを時計塔の上まで連れて行ってくれた。六つの銅の大時計はスペイン王フェリペ二世の時代の寄贈品で、現在もこの町のシンボルである。その老人はこの時計塔を見守って過ごすことを生涯の仕事としてきた。

私は塔の小窓を跨いで教会の屋上に出て、小走りに行ったり来たりした。今までの人生で教会に何度通ったか分からないが、教会の屋上を走り回ったのは初めてだ。こんなことをして主の意向に反しないかとも思ったが、神は私がこのように喜んでいるのを見ればお怒りになることもあるまい。いずれにせよ、この小さな町でできることは限られている。

 ミニバスでの旅行は、最初は確かに目新しく面白いものだった。車掌ということになっている十七、八歳の少年がドアの外に身を乗り出していて、道で手招きする人がいれば車がまだ停まらないうちに飛び降り、何のためらいもなく乗客の積み荷や手荷物の出し入れを手伝う。その態度は親切でごく自然だ。彼は必死に人と荷物を入れる隙間を探してはバスに詰め込んでいく。車内はイワシの缶詰のようにびっしり混み合っている。荷物の中にはもちろん生きた動物もある。痩せた豚と二羽のニワトリがいた。豚は劣悪な環境を恨んでずっと鳴いていた。一組の夫婦が一台のコンロを持って道端でバスを待っていた。当然コンロも押し込まれた。夫婦はコンロの傍で幸せそうに寄り添っている。それが世界でたった一つの大切なものなのだ。

 埃の舞い上がる道の傍にバスが停まり、一人の女が布包みを持ち上げて泥と木でできた小屋の前に降りた。小屋の中からボロを纏った数人の子どもが飛び出し、待ちきれない様子で母親に駆け寄って手にしたクッキーをもらっていた。なんと味わい深い、名画のような光景だろう。

 ここは青い鳥の辿りつけない場所。人々はその名を聞いたこともなく、夢見たこともない。

 ミシャと私は村や小さな町を通り過ぎて進んだ。極貧の地域では、土でできた部屋の中にはハンモックが一つあるだけ。窓は壁に穴を穿っただけで木枠も風よけのガラスもない。女と何人もの子ども、そして壮年の男がぼうっと門の前に座り、車が過ぎていくのを見ている。彼らの家は傾斜した土地にあり、オレンジの木や数本のトウモロコシが植えられている。何も植えていない泥でできた小さな家も素朴で分をわきまえた感じで立っており、特に不満もなさそうである。

雨が降ってきた。土で作られた家が流されてしまわないかと心配しながら、祈りにも近い気持ちでどうにか止んでくれないかと願った。

 ホンジュラスの景色は絵画のようだ。松林や河、山、深い青色の空、草原に群れを成す牛や羊。どこを見ても一幅の迫力のある風景が広がっている。ただし、私は途中で出会った貧しい人たちの顔だちと眼差しが忘れられず、彼らの善良で恥ずかしげでしかも常に微笑みをたやさない表情が心に焼き付いて、道中ずっとやるせない気持ちが消えなかった。

 旅を始めてから十日が経ち、ホンジュラスとグアテマラの国境に辿りつい。マヤ人の都市として有名なコパン遺跡はジャングルの中にある。首都からここまで寄り道をせずに来ればこんなに時間はかからなかったはずだ。しかし、村ごとに泊まっていたのでいつの間にか日々は過ぎていた。

 生まれて初めて全身をノミに噛まれて体中どこもかしこも赤い斑点だらけで、髪の毛の中もものすごく痒くなった。だが、こんなに寂れたところで宿が見つかったのだから文句は言えない。私はやはりこのような旅が好きだ。カフェで空論を並べ立てるよりずっと充実している。

 コパン遺跡と呼ばれる地域についた。なんとか水と電気は通っている。まずまずのホテルが二軒あったが、ひっそりとしていた。私は何より先にお湯は出るのかと尋ねたが、残念な答えしか返ってこなかった。山間部の気候は急に寒くなるから風呂には入らないことにした。中北部の工業都市サンペドロスラに着いてから宿を探し全身の大掃除をしよう。

このマヤの遺跡は一八三九年に発見された。遺跡は鬱蒼と生い茂るジャングルの中で泥と樹木に覆われ九世紀近く眠っていた。調査によると、西暦八〇〇年ごろの町のようだ。遺跡が発見されてから百年後、一九三〇年までイギリスとアメリカの調査団による発掘と復元、整備が行われた。残念なことに、最も元の姿を保っていた石の彫刻はホンジュラスにはなく、大英博物館とボストンにある。とはいえ、このジャングルの中に残された祠やいくつもの石できた顔や人体の彫刻は素晴らしい。

 小雨が降る明け方に、私は遺跡で一番高いところにある階段のてっぺんに座り頬杖をついていた。静かに足元に目をやると、旧時は「スタジアム」と呼ばれた場所が今は一面芝生に覆われた広野となっている。長身でがっしりしたマヤ人が大声を出しながら飛ぶように走りアメリカンフットボールをしているところを思い浮かべた。

滅びることのない魂よ、私の心をこめた呼びかけで蘇ってください。

神秘的で静かな苔むしたジャングルの中で、一瞬、霊の影がゆらゆらと揺れた。私は枝を一本拾って、草をかき分けながら遺跡からジャングルへと入っていった。驚いたことに、苔むした飛び石にはすべて人の顔が彫られていた。それらは枕ほどの大きさで、ひとつ、またひとつと緑の顔が並んでいる。コパン川まで歩いてやっと足を止めた。川の水は絶えず流れている。見るとまた寂しくなった。ミシャは林には入ってこない。石の階段に座って、林には蛇がいるからと言う。他にも彼が怖がるようなものはいる。あるいは彼をパニックにさせるさらに恐ろしいものもいるかもしれない。ただ彼には見えていないだけだ。

 コパンから工業都市サンペドロスラに到着したとき、私はすでに我慢の限界だった。道路は平坦でほとんどアスファルト舗装だが、問題はミニバスのシートが破けてスプリングが飛び出していることだ。その上に座るのだが、二つの座席に三人が詰め込まれ、私も膝の上にも五、六歳の女の子が座っていた。足元には一匹の鶏が身をよじっていて、そのフワフワした体に触れたくなくて懸命に足を縮めていた。バスに乗っている間、かなり厳しい体力テストを受けているようだった。

 バスを降りると人々は付近の一軒のホテルを指さし、私たちは迷わずそこに入った。やはりお湯は出なかったが、十何ドルか支払った。 ミシャが一匹のノミを捕まえてきて彼の部屋にいたと言った。彼が手を弛めるとノミが飛び出し、私の体のほうに跳んできてどこかにいなくなってしまった。

 ホンジュラスに来て腸炎を患った後は毎日午後になると微熱が出て、そのせいで上唇が化膿し十日以上も治らなかった。冷水でシャワーを浴びてまた熱を出すのが心配だったので体を洗わずに我慢していた。翌日、北部のカリブ海周辺の町テラに行けばやっとシャワーを浴びることができる。用心しながら顔を洗い歯磨きもした。髪をとかしおさげをきっちりと結った。これで私の秘密がばれることはないだろう。こんな状態ではあったが、それでも自分がこの町で一番清潔だと感じた。その晩は自分を甘やかすことに決め、現地の食堂ではなく中華料理店に行って気が済むまで食べた。

 その夜、夢を見た。夢の中で清潔な大型の青い鳥バスが私を乗せてシュロの木が茂る砂浜にやってきた。この上なく清潔な私は、砂の上に木の枝である人の名前を書いた。書いているとその人が海から現れた。私は狂わんばかりに喜びの叫び声をあげて海の中へ駆けていき、彼と手を取り合った。湿った手の感覚はまるで現実のようだった。

 サンペドロスラからはまた二回乗り継いだ。大型バスの二人掛け座席に三人が押し合いながら詰め込まれ、貨物も積んでいた。それは夢で見た「青い鳥」ではなかった。

 テラに到着し、バスを降りても海は見えなかった。バス停の人混みも屋台も山間部とは異なり、人々は背が高く痩せていて、大きな帽子はかぶっておらず、馬にもまたがっていない。肌の色は美しい褐色ではなく多くが黒人だ。家もまた屋根瓦と土でできたものではなく、イギリス植民式に似た木造建築で町は埋め尽くされていた。かつてホンジュラス北部にはイギリス人とオランダ人がいた。そして、十九世紀末になるとアメリカの果物会社が黒人と米国文化を持ち込んだ。スペイン人は内陸へ移り、その他の人々は沿海部に広がっていった。同じ国の中に多くの文化や人種や風景がある。それに宗教もそうだ。この地はプロテスタントがカトリックよりも多い。

 一帯の砂浜はとても狭く、海岸沿いの暗がりにまるで映画館のようなレストランが一軒あり、赤や緑のネオンを点けて狂ったようにアメリカのヒット曲を流して自然の静けさを壊している。波は荒れ、小雨が降っている。街はどこもゴミだらけで目を覆いたくなるほどの惨状だ。こんなに美しい建物が沢山あるというのに残念でならない。十数軒の大きなゲームセンターが競うように耳をつんざく騒音を立てている。ああ、これではじきに神経が参ってしまう。外食はとても値段が高いのに粗末なものばかりで、ホテルの人は当然のようにお湯は出ないと言う。だがそんなことは問題ではない。街中がこんなにも必死に騒音を立てさえしなければ、私はそれだけで満足だ。

 夜の砂浜で私はごみの中から拾ったヤシの実を海に投げた。ヤシの実は何度か波にもまれて流れ、また戻ってきた。バーでは曲が流れていた。「I love you more than I can say*1「言い表せないほど君を愛している」という古い曲だ。潮騒の中、星空の下、すべては移りゆく――。私は海岸沿いの長い道を歩きながら、ずっとあのメキシコの小さな神のことを考えていた。すっきりする方法が他に思いつかず、急いでホテルに戻り、冷たい水道の蛇口の下で体を濡らした。

 なんてさみしい国なのだろう。たった十日ほどで、この土地の憂いがこんなに私に染み込んでくるなんて。

首都テグシガルパに帰る途中、バスでしきりに自分に言い聞かせる。もし観光客向けの高級ホテルがあれば、高い宿泊代を払ってでもバスタブとお湯のあるところに泊まろう。たぶんそれは恥ずべきことではないだろう。だがここは今回の旅程のまだ二つ目の国ではないか。初めからこんなに弱っていては今後の長旅をどうやって続けられるだろう。このような庶民的な旅にこそ学ぶことがあり価値があるのに。

 道路沿いのフルーツ屋台で葡萄は一ポンド、三レンピラ五センタボだった。腹が立ち、買う気になれなかった。美しい油絵が目に入った。描かれているのは山間部の土小屋と人々で、四千ドルだった。その値段には笑うしかない。貧しい人々の生活がこんな絵に描いたような美しいものだろうか。

 最初に泊まった湯の出ないホテルに行こうとする私にミシャは抗議した。私はあまりに自虐的だと言う。彼の言うことは聞かなかった。共同浴室の蛇口をひねってザーザーと冷水を出し、この千四百キロの埃と疲れを容赦なく洗い流した。ホテルに三日間閉じこもったが、一文字も書けなかったのでもっと奥にある部屋に変えてもらった。窓がなく、机もなく、床の上に原稿用紙を広げて床に座って原稿を書いたが七、八千字を破り捨てた。あの霊界のように寂れた村がしきりに思い出される。壁しかない泥土の小屋の入口に「神は愛である」と書かれたプレートが掛けられていたのを思い出すと、言葉では言い表せないほどの悲しみがこみ上げてくる。しかし仕事を溜めたくはないし、溜めることはできない。執筆環境は劣悪で照明も不足しているが、大きなホテルには移りたくない。だがそれも実際には拘りすぎなのだ。この三日間で観光客用のレストランに三回も行った。これは山間部の人々の一年分の収入に値するだろう。路上の子どもたちにやれるお金には限りがある。とはいえ、新聞社の経費には十分な余裕がある。だが子供たちの憐れな表情を思い浮かべると、やはりお金を湯水のように使うのは忍びない。外の子どもたちはお腹を空かせているというのに、どうしてウィンドウガラスの内側でステーキを食べられるだろうか。もちろんこれは女の仁愛というものだろう。しかし私も一人の女なのだ。

 ホンジュラス滞在最終日の夕方、私は物乞いであふれる広場の一角で、低い音でハーモニカを吹いていた。その小さなハーモニカはインディアン人の谷で買ったチェコの製品だ。この旅の記念にするとしよう。

 そのとき、一台の青い鳥バスがゆっくりと町の上の方から降りてきた。ミシャが大声で言った。

「見て! 一度も乗ったことがない青い鳥だよ! 走って行って写真を撮ろうよ!」

 私は少し苦笑いし、曲を吹き続けた。

 何が青い鳥だ。ここは青い鳥が辿りつけない場所だ。青い鳥なんてどこにもいやしない!

後記

 ホンジュラスは壮麗な景観と礼儀正しい人々、そして静寂と希望のある国だ。彼らは高い水準の工業と都市、住宅地を有している。これは個人的な紀行文にすぎず、訪れた場所は全て貧しい僻地である。そこで出会った人々もまた私の愛する最下層の庶民だ。ここに記されているのはホンジュラスの一部であり、全てを示すものではないことをここに追記する。

 

訳注

*1 「I love you more than I can say」。邦題「星影のバラード」レオ・セイヤ

| | コメント (0)

三毛の中南米紀行 -4-

中米の庭園  コスタリカ紀行 

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158732.html

この旅でスペインの文豪セルバンテスが書いたドン・キホーテとサンチョ・パンサの話を思い出した。物語に描かれたドン・キホーテは、想像力豊かで正義感があり、弱い者の味方をする気高い騎士である。彼は各地を渡り歩き、毎日のように空想の敵に向かって勇敢に戦いを挑む、言ってみれば夢見るナイトだ。従者のサンチョ・パンサは馬がないのでロバに乗り、どんなときもしっかりと主人に付き従っている。主人の日常生活を全て世話し、ドン・キホーテが怪物と対決する時にも逃げず、時には共に戦うことすらある。彼は心から崇拝しているドン・キホーテを決して裏切ることはない。もちろん、ドン・キホーテの「騎士道精神」とサンチョ・パンサの「忠誠心」は彼らに敬意を払った言い方にすぎず、客観的に見れば一人は頭がおかしな男、もう一人は妄想に付き合っている一途で気がいい男ということになる。

今回のツアーのメンバーは二人だけ、ミシャと私だ。そこでどうしてもドン・キホーテの物語を連想してしまう。はじめは私がドン・キホーテ、ミシャがサンチョ・パンサのはずだった。旅行に出て一ヶ月半が過ぎ、気がついた時には配役が変わっていた。サンチョ・パンサはなんと私のほうだったのだ。ミシャは言葉が通じないからサンチョ・パンサ役の私はご主人様にひもじい思いや寒い思いをさせないようにしなければならない。バーで絡まれそうになり追い払ったことが三回もあった。些細なことでご主人様を煩わせてはならない。この芝居ではミシャこそ主人のドン・キホーテだ。だがこのドン・キホーテは戦わず、性格はおとなしい。道中、私は自分の身分を思い出すたびに可笑しくてたまらなかった。深夜のコスタリカ空港で公衆電話をかけるために他人に硬貨を恵んでくれるよう頼んでいたときもミシャは荷物の横でのんびりと雑誌を読んでいた。生まれて初めて物乞いの真似をしたのは、飛行機が夜中に到着したため両替所がすでに閉まっており、手持ちはトラベラーズチェックと米ドルの高額紙幣しかなかったからだ。思いがけず一枚の小銭を手に入れた時はかなり嬉しかった。

ホンジュラスを離れ、コスタリカの首都サンホセでお湯が出るホテルに泊まれたときは、まるで夢のように現実感がなかった。ホンジュラス滞在中は移動に次ぐ移動のためにサンダルを一足ダメにし、足は水ぶくれと青あざだらけになった。心の底に沈殿したホンジュラスに対する嘆きは、かの国を出てからも消えることはなかった。

原稿を書こう、ペンを走らせよう! 休んでばかりいたら、この旅行が終わった時には仕事が山積みになってしまい、後悔することになる。

この一ヶ月で初めてミシャと仕事の反省会を開いた。これからは徐々に彼も仕事を分担するようにと話した。ホテル探し、航空券の手配、ビザ、フィルムの購入、両替、車の手配、下調べ、観光……、全てを私が手配すべきではない。彼はスペイン語日常会話の勉強にもっと力を入れなければならない。

ここまで話してから、ミシャを一人で取材に行かせ、自分は落ち着いて原稿用紙に向かってこれまでの旅行記の執筆に専念し始めた。食事に出た以外はどこへも行かずに部屋に閉じこもって雑念を捨てて執筆に没頭した。仕事が一段落したときにはコスタリカに来て一週間経っていた。この七日間、言葉が通じないミシャがどんなふうに生活していたのか私は全く気にしなかった。サンホセの女性は世界で最も美しいそうだが、ミシャにはガールフレンドの一人もできなかった。一度だけ、頭がおかしい女に追いかけられてホテルまで逃げ帰って救いを求めてきたため、私にこっぴどく叱らることになった。きれいな娘を追いかけず、逆に頭がおかしい女に追われて、慌てて逃げ帰って宿泊先を知られてしまうなんて、あまりに間抜けすぎるではないか。

 

中米の庭園

 コスタリカは中米のスイスと呼ばれ、首都サンホセの都心は栄えているとは言えないが、市場には物が溢れている。街はホンジュラスと比べるとレベルが違い、町を歩いている人たちの雰囲気も違う。西隣りはニカラグア、東はパナマと接する。面積五万千百平方キロメートルの平和な小国で、現在の人口はわずか二百万人ほどである。この国では教員のほうが軍人より多いそうで、それも面白い話だ。一九四八年にコスタリカは中立を宣言した。「治安警備隊」という組織が秩序を維持するのみで、軍隊を持たない国家である。聞くところによれば、スペイン人が十六世紀にこの土地に侵攻して占拠したとき、先住民のインディアンはヨーロッパから持ち込まれた伝染病でほとんど死に絶えてしまった。そのため、混血児は少なく、白人の割合が高い。

東部カリブ海側のリゴウ湾地区は、十九世紀末に「アメリカ連合果物会社」がバナナ栽培のためにジャマイカから沢山の黒人を連れてきた土地だ。黒人労働者の子孫は残ってはいるが割合は多くない。コスタリカは一八〇五年にキューバからコーヒーを導入し、政府は土地を提供してコーヒー栽培を奨励した。四十年を経てコーヒーは海外の市場に輸出されるようになった。さらに四十年後、国内鉄道はカリブ海と太平洋の二つの港湾を結び、今では世界的なコーヒー輸出大国の一つになった。この鉄道を造るために中国からきたクーリー*1たちは、黄熱病、劣悪な待遇、辛い労働のために四千人が命を落としている。一八九〇年のことだ。私は今でもサンホセからリゴウ湾をつなぐ鉄道に乗ってみようとは思わない。鉄の轍に押し潰されたのは、私たち中国人が払った血と涙と命だ。当時の中国人労働者は今日でも苦難を象徴する存在である。彼らを思うたびに泣きたい衝動にかられる。

 コスタリカは本当に美しい国だが、隅々まで見てまわる計画はなかったので、小休止のために立ち寄った場所としか考えず、遠出はしなかった。首都のサンホセからほど近い小都市二箇所と火山を訪れた。道中、清潔感のある美しい一戸建てが青い山の傾斜地に静かに立ち並ぶ様はアニメ映画の中にいるような現実味のない楽園に見え、夢のような風景であった。ここはホンジュラスではないが、やはり「青い鳥」と名付けられた大型バスが走っており、私は簡単に乗ることができた。中米に隠れていた幸せの鳥はこんなところにいたのである。

 

中国の農夫

 コスタリカには親友の妹の陳碧瑶(チェン・ビーヤオ)と彼女の夫徐寞(シュー・モウ)が何年も前から住んでいる。台北を離れる時、よく気がつく親友は彼女の妹の夫の会社の住所と家の電話番号を全て書いて渡し、コスタリカに着いたら必ずこの家族を訪ねろと何度も繰り返し念を押した。私はとても人見知りで、他人に迷惑をかけることが嫌いな性格でもあり、また原稿の執筆に没頭していたりしたので、サンホセを一回りした後も徐寞夫婦にはまだ電話をかけていなかった。だが内心ではかなりの葛藤があったのだ。徐寞は中興大学で農業を学び、農業技術チームに参加した。そしてアメリカの農業技術会社の専門家として大豆栽培を普及させるためにコスタリカに滞在しているだけでなく、同時に友人と共同経営する農場も持っている。彼は私とかなり性格が似ているはずだ。碧瑶は親友の実の妹で、十数年前に彼女がまだ少女だったころに会ったきりだ。訪ねて行かないわけにはいかないだろう。あと三日でここを離れてパナマに行くことになっているが、気が重い。人に迷惑をかけたくないし、人から親切に心からもてなされたりすれば、私は不安になってしまう。ようやく電話をかけて、口ごもりながら自己紹介をした。電話の向こう側で徐寞が三毛さんと叫び、お姉さんからとっくに連絡をもらっていると言った。続けて、碧揺も大声で夕食に来るようにと誘ってきた。ちょうど彼らの農場は大麦が豊作で、その日は中国人や外国人の沢山の友だちを招いたから必ず食事に来てくれと言った。

 その夜、徐寞は車で迎えに来てくれて、ミシャも強引に連れて行かれた。彼らの厚意をどうして断れるだろうか。徐寞と碧揺の家は、台北なら大富豪しか住めない庭付き一戸建ての平屋だ。だが彼らによるとコスタリカではごく普通の住宅ということだった。私は家が農場の中にないことに少しがっかりした。子どもが学校に通っているため、遠くにある農場に住むのは不便なのだそうだ。徐家族の二人のかわいい子どものうち、五歳の小文(シャオウェン)は家では中国語、学校ではスペイン語のバイリンガルだ。しかし彼女が描いた絵の中の人々はみなコスタリカ風の顔をしていた。その夜はこの地に定住している中国人同胞にも会うことができた。その中にはもちろん一緒に農場をやっている友人たちもいた。農夫たちの話し方は魅力的で表現力が豊かである。一人一人が理想や抱負、自分の土地に対して大きな情熱や夢を持っている。彼らは自分の農場を「小さな農場」と言うが、その面積を聞いたところ歩き終えないうちに力尽きてしまうぐらいの大きさだった。

 社交上のマナー違反を気にしなければ、おそらく一晩中ずっと農場経営の話に終始してしまっただろう。人生の目標を追求していくなかで様々な経験をした後の唯一の心残りは土地に対する執着だからだ。夢にまで思い描いた自分の農場。誰が永遠の旅人として放浪することなど望むだろう。いつか、手の中に自分の土地の土を握りしめ、青々とした穀物の穂が快晴の下でそよ風に吹かれてゆっくりと成長するのを見ながら、一年の収穫を計算する。その地に足がついた心情は私にとって、晩年の最高の答えである。

 徐寞と碧揺は、私の連絡が遅すぎることを責めた。もっと早く知らせてくれれば農場と田舎を見ることができたのに、と。最後に徐寞は、私とミシャを田舎に連れて行くため出発を遅らせることはできないのかと聞いたが、スケジュールは変更できなかった。田舎に行って人生をもう一度大きく変える勇気がなかったからだ。現実と理想の間には距離があるものだ。一か八かの勝負に出て、また一から学びなおし、辛い思いをして土地をしっかりと理解し、そして土地に自分自身をゆだね、一人の農婦になることを恐れたのだった。

徐寞はミシャと私をホテルへ送ってくれる途中で子どもの話をした。

「娘も将来は農業を学んでほしい」と彼は言った。その話を聞いて心の中でとても感動した。彼は土地に対して、農夫の生活に対しての一途な愛を、この何気ない一言で明らかに表している。私たちの世代の移民は昔とは違うのだ。

 コスタリカは土地が広くて人口が少なく、情勢は安定している。気候は穏やかで、人々は親切で誠実である。我が国で農業を学ぶ青年は、台湾では土地に限りがあるだけでなく資金を必要とするため大きな仕事ができにくい。もし最初の十年の苦しい経営を恐れないのであれば、ここは確かに試してみる価値のある場所だ。苦しみに耐えることと、苦しむことを恐れない中国人の気質さえあればコスタリカは楽土となる。

 以上の話には私の極めて主観的な感情と好みが含まれている。実際、移民の辛さとやりがいについてはそれぞれ異なる味方があるだろう。一人一人の機会も平等とは限らない。自分はこの道に進む、と決めたとしても成功するかどうかは自分の覚悟次第だが、その覚悟だけでは希望が叶う保証は半分でしかない。所詮、農業は大自然のルールに自分の運命をゆだねる生業なのだ。

 

もう一種の移民

 サンホセは人口三十万人に満たない首都だが中華料理屋が多く、数歩歩くごとに一軒見つかる。何軒か行ってみると、経営状態はあまりいいとは言えないのに、値段は不公平なぐらい安い。おそらくレストランどうしの競争が激しく、値段が高いと商売にならないのだろう。ある中華料理屋で翁(ウォン)さんと知り合った。お互い寧波人だから話にも親近感がわく。その晩はメニューにある料理ではなく、翁さんが特別に「魚の姿蒸し」をごちそうしてくれた。この同郷人の親切にはお返しする術がない。中国人は中国人に対しては決して飲食で不満を持たせることはしない。やはり私たちは美食文化の民族なのだ。翁さんはコスタリカに来て五年、ここの女性を妻にした。ゼロから起業したが、歳はミシャより二、三歳ほど上にすぎない。有能な青年であり、話の端々から中国語のレベルも高いことが分かった。知識は幅広く、人の気持ちもよく理解してくれる。自分の家庭と国を愛し、自分のルーツを忘れず、異郷で活躍している。彼の年齢を考えれば、これは容易いことではない。だからこそ、この世代の移民、我が台湾の移民がコスタリカで多くの素晴らしい成果を上げているのだ、と私は再確認した。

 

また来たい

徐寞と碧揺にもっと早く会えば良かった。彼らの長女、あの可愛らしい小文にも私は心を奪われた。もう一人の子はまだ小さすぎて、あまりコミュニケーションができない。碧揺はスペイン語を流暢に話す。コスタリカに来た当初は水道も電気もない農場に住み、どんなに苦しい生活にも耐えてきた。そして現在は夫を支えながら子どもをしつけ、自分の生活や仕事を楽しみながら過ごしている。農場と将来のことを話すときも、彼女が自分で選んだ人生を深く愛していることがわかり、この点でも彼女を尊敬した。三日間一緒にいて、そのうち二日は碧揺が料理やギョーザを作り、私とミシャに食べさせてくれた。徐家の友達は皆フレンドリーだ。更にうれしいことに互いに話が合い性格も近い。皆さっぱりした人たちだ。もともと別離の情もわかないはずの異郷だが、彼らとの友情を思って、コスタリカをまた戻ってこようと何度も思ったのだった。

 

異郷人

 この旅では、コスタリカは休養のために来たのでリラックスして過ごした。ひとり公園に座って人間観察をしたこともある。一人の落ちぶれた中年がポップコーンを売っており、大きい袋を担ぎ公園の中で一人ひとりに声をかけていた。三、四周まわっていたのを黙って見ていたが、一つも売れなかった。しまいには彼は私の隣の長いベンチに座って、下を向いてうなだれ、もう売りに行かない様子であった。

「どうして私には売ってくれないの?」と笑いながら彼に聞いてみた。

彼はびっくりして頭を上げ、すぐに袋を開けて紙袋を取り出し、一包みいくらのものが欲しいか私に聞いた。私はポップコーンを受け取り、今日はどのくらい売れたのか尋ねると、彼は突然目を潤ませ、商売は難しいと言った。もとはキューバからの難民で、奥さんと子どもを故国に残して来た。家族は彼が異郷で成功して迎えに来るのを待っている。

「何ヶ月かポップコーンを売っているけど、一日三食を食べるのも難しい。ビザが出ればアメリカに行きたいがアメリカには入国保証人になってくれる知り合いはいない。私より早く来たキューバ人はここで三年も待っている。でも私は……」                     

私は静かに話を聞きながら彼が何度も涙を拭いているのを見た。その止まらない涙の中にはどれだけのやるせなさ、苦労や郷愁が含まれているのか。

「このポップコーンはあなたにあげます。これまでこの異郷で誰とも心を打ち解けて話をしたことがなかった。話をしたら少し楽になりました。受け取って下さい」

 彼は私に小さい袋を手渡して立ち上がり、ゆっくりと歩いていった。ポケットの中をさぐると小銭が残っていたので、あわてて彼を追った。彼の服のポケットに小銭を入れ、何も言わずに逃げた。その人は後ろからずっと叫びながら追いかけてきた。

「奥さん! 奥さん! 待って下さい……」

そんなに多い金額ではなかったので、自分でしたことが恥ずかしかった。他人に同情するときは人を傷つけないよう注意するべきだ。だが、お金は最も現実的なものだ。コスタリカに到着した初日、私も他人から一枚の銅貨を恵んでもらった。私と同じ異郷人にこのお返しをしよう。私は男が涙を流すのは見ていられない。彼らの涙は女と違うからだ。

 

出発

サンホセは十八世紀末にできたばかりの都市で、確かに住むには良いところだが、建物や情緒には時間によってしか刻まれない歴史の重みが足りない。ここにはインディアンがいなかったことも、私をひきつけなかった原因の一つだ。コスタリカは文明的すぎた。歩きすぎて靴が一足ダメになったので、ここでまた新しい靴を買い、更に長い道を歩く準備をした。立ち去る時、徐寞のジープに乗り、洗われたような青空と緑色の平原を見ながら、農場のことを考えた――私は何か別の理由で再びここに戻ってくることがあるだろうか?

飛行機に乗る前、ミシャに徐寞の写真を撮ってもらった。中国の素晴らしい青年たちが海外でおさめた成果と栄光を忘れるべきでないからだ。

訳注

*1クーリー(苦力):アジア系の外国人単純労働者

| | コメント (0)

三毛の中南米紀行 -5-

従妹のミニー  パナマ紀行

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158733.html

 また初めての場所にやってきた。

エアポートホテルの価格を見ただけで心臓がドキドキした。たぶん小さなホテルでも安くはないだろう。ここパナマは、アメリカン・スタンダードでアメリカン・スタイル、通貨も米ドルをそのまま使う。自国には硬貨しかなく紙幣は作っていないところもなかなか思いきっている。旅の費用は充分にあるし、ホンジュラスでは予算を超過してしまったが、他の国では余裕がある。だが、パナマで中級クラスのホテルに投宿した際にはあまりに割高なため心配になってきた。

 到着した日の晩、荷物を置いてポスコ・ビエホの地図を手にミシャと市内の中心部をあちこち歩き回った。もっと安いホテルを探したかったからだ。一部屋二十ドルほどのホテルを一軒見つけたが、見るからに不潔で怪しそうな男女が出入りしていた。そのホテルは皮肉なことに「理想ホテル」と名付けられている。入口に酔いつぶれた男たちがいるのはまだいい。少なくともそのまま動かないでいてくれる。むしろ、しらふの男たちのほうが始末に困る。ミシャが私の傍にいても手出しをしてくるからだ。私は立ち止まってそいつらを口汚く罵った。実のところ、彼らには本気で何かしようなどという魂胆はないのだが、ミシャはびっくりして何歩か走って逃げてからやっと振り向いた。こんなところには泊まれない。

 叔母の娘がここで何年も暮らしている。会いたいが、従妹の家族に気を遣わせるのがいやで、一晩中ためらっていた。ここを離れる日に電話した方がいいかもしれない。そうすれば彼女も私をもてなさずに済む。とはいうものの、パナマには四日間しか滞在せず、執筆の予定もない。親戚がどうにも懐かしく思え、ついに電話をかけてみた。それに従妹の連れ合いも私のお気に入りだったのだ。

 「ミニー!」という最初の一言で、電話の向こうにいる従妹は「平平(ピンピン)姉さん!」と大きな声をあげた。その悲鳴にも似た叫び声―あるいは彼女の普段の口調そのままなのかもしれないが―を聞くなり、私はいきなり言葉に詰まってしまった。従妹は異国に嫁いで十年、身内でパナマに訪ねて来たのは私が初めてだ。しばらくすると、従妹の夫からも電話がかかってきて、連絡をくれれば空港まで迎えに行ったのに何故もっと早めに連絡しないのか、と大げさに責めたてた。それから体の調子はどうかと聞かれ、もうすぐ退社時間だから妻と一緒に迎えに行くのでぜひ自宅に来てくれと言った。血縁者の思いやりと優しさに触れ、自分は旅の間中ずっと孤独だったことにはじめて気づかされた。一家全員に気を使わせるのは本意ではないが、従妹家族は私の来訪を一大事だととらえているらしい。感謝の気持ちで彼らのもてなしと招待を受けるしかない。ホテルのロビーで従妹たちの迎えを待っている間も私はそわそわしていた。ミシャは連れて行かない約束だったが、私の横に付き添って座っていた。

 従妹の夫は、見た目はあまり変わっていなかったが、以前よりも落ち着いた大人になっていた。従妹は偶然に出会っても気がつかなかったかもしれない。十年は短い時間ではない。髪を長く伸ばして物静かだった少女が、髪を短くカットした小太りで眼鏡をかけた中年女性になっていた。従妹は私の腕をとって歩き出し、ミシャも強引に車に乗せられそうになった。

「ミシャは行かないわ。身内の話もあるから彼は邪魔―」と私が制すると、

「話って?、話より食事が大事、まずはしっかりご飯を食べてもらわなきゃ。話はそれから!」。従妹は豪快に言った。

 十年前、従妹は二十歳、その夫はまだ二十四、五歳で、二人ともスペイン語が分からない若者だった。はるばるパナマに渡って時計の卸売りを始め今ではいっぱしの実業家だ。

 従妹は私と話をする時には上海語にところどころ寧波方言が混じる。こんなところはちっとも変わっていない。変わったのは彼女がラテンアメリカの気風を身につけてあけっぴろげで率直になったこと、スペイン語を流暢に話すようになったこと、それに気の強そうな話し方をするようになったことだ。異国での十年の苦労が少女を強い女性にした。もはやひ弱どころか勇猛果敢でさえある。

 私は従妹の祖母が上海で亡くなったことを食事中にうっかり話してしまった。彼女はすでに知っていると思っていたのだが、台北の叔母は彼女には知らせていなかった。その話を聞いた彼女は夫の肩を叩いて「徳昆(ドークン)、徳昆! おばあちゃんが、死んじゃった、死んじゃった!」と叫びながら今にも泣き出しそうになった。だが彼女は号泣する前に自分自身に言い聞かせて何とか気持ちを切り替えて落ち着きを取り戻した。初日の食卓で従妹にこんな知らせをしたことを何日も後悔した。まさか彼女が知らなかったなんて。

「二年前は、死ぬほど悲しかったんでしょう?」、従妹が料理を取り分けてくれながら私に尋ねた。

「私?」、と苦笑いしたが心の中は空っぽだった。

「お姉さんの旦那さまが生きていれば、私たち家族とスペイン語で話せたのに……

突然、私はこの生まれ変わった従妹に心から感心した。話す言葉も人に対する態度も真っ直ぐで曲がったところがない。お世辞も言わないし、特に慰めようともしない。その率直さこそが彼女の個性を際立たって美しく見せ、頼もしく感じさせるのだ。

たった四日間の滞在だったが、従妹の家に泊まるのは断った。毎日ミシャと合流するためだけに従妹の夫に迷惑をかけてしまうのを避けたかったからだ。それでも従妹の夫は仕事を休んでコロン・フリーゾーン*1にある会社には出勤せず、ミシャと私を色々な所へ連れて行って観光に付き合ってくれた。両替や、次の目的地までの航空券、食事などありとあらゆることを彼らに全て面倒を見てもらった。そのためパナマではバスに乗るチャンスがなかった。私は従妹より年上なのに、日常生活まで年下の彼女の家族や、さらには彼女の友達まで動員して、至れり尽くせりの世話になった。

また、同胞の親切にはコスタリカの時と同様に感動させられた。農業技術団の蘇(スー)団長とその家族が私に会うために従妹の家まで訪ねてきて、自宅での食事に招かれた。従妹の夫はそこまでしてもらうのは申し訳ないと言い、私もまた蘇夫人に迷惑をかけるのが心苦しく、招待を固辞した。結局、その翌日には大使館の陳武漢(チェン・ウーハン)夫妻、中国銀行の向(シアン)さん一家、蘇さん一家、彭(ポン)さん、宋(ソン)さん、そして従妹も加わって、テーブルが埋まってしまうぐらいのご馳走を作ってくれた。遠路はるばるやって来た従姉をもてなすため、ということだった。

  蘇家の娘たちは中国を離れて何年も経つが、家庭でしっかり教育されており今も中国語の本を読んでいて、私の読者でもある。武漢の奥さんも読書好きだ。人々が三毛をこんなにも愛しているのを見るとひどく不思議に思える。それなのに私はさほど彼女に関心を払わないのは何故だろう。三毛は自分の一部であるはずなのに。

 パナマは元々コロンビアの一部で、独立した時期にはアメリカが強力な後ろ盾となった。運河とコロン・フリーゾーンはこの国を繁栄させ、世界各地の銀行もここで資金を調達する。都会はまるでアメリカの都市のようで、街を走る車もほとんどがアメリカ製、英語は小学校から必修科目として学ばれる言語である。アメリカ側はすでに運河をパナマ政府に返還したが、まだ駐在米軍兵士は万人もいる。

 従妹の夫と従妹もそれぞれアメリカ製の大型車を所有し、休暇はマイアミに行く。アメリカ文化の影響を免れることはできないが、家庭では中国人以外の何物でもない。商売では各国の顧客を相手にするが、ふだん親しく付き合い、週末に呼ぶ友達はやはり中国籍の友人だ。従妹の住むオーシャンビューの高層マンションで従妹の夫は私にあっさりとこう言った。

 「外国暮らしなんて! 家では中国語を話して中華料理を食べているし、週末の朝は子どもにつきあって公園、午後は麻雀をしたり音楽を聴いたり。外の世界を見る必要なんて全くない。中国にいるのと同じさ!」。

 私はその話を聞いて笑った。彼の率直さと飾りのなさが好きだ。彼は外国人を全く気にせず、ただこの国で自分の商売をしているだけなのだ。この生き方も彼の自由だ。私には何も言うことはない。これもまた別のタイプの中国移民と言えよう。

もしもパナマの経済が下向きになる日が来たとしても、従妹の夫は困ることはないだろう。妻と子どもを連れ、次の国に行って市場に参入する。そこがまた自分の生きる場所になるのだ。中国人は風変わりで屈強な民族である。他の人種と違い、彼らはどこに行っても中国人のルーツを簡単に手放すことはない。従妹はパナマに来た時は何も分からない子どもだった。当初は会社のある自由区にほど近いコロム市に住んだ。この治安がひどく悪い地域に年も住み、そして経済的に余裕ができてからよううやくパナマ市内に引っ越した。コロムでの暮らしを思い出し、従妹は笑いながらコロンは「苦籠(クロン)」だったと言った。街中で強盗に二回も革のジャケットを奪われ、従妹はそれを無理矢理奪い返したそうだ。強盗に遭ったときは勇ましく行動したが、家に帰ってから急に怖くなって号泣した。中国の娘は長い十年を経て大人になったのだ。従妹の賢くて可愛い子どもと、互いに支え合う夫、そして大勢の中国人の友だちを見て、私はとても感動した。この十年の海外生活は生きていくための学びであり、彼ら自身の努力の結果でもある。

 ミシャは従妹と彼女の夫に魅了され、二人の「人間的な魅力」を何度も讃えた。従妹の夫のスペイン語はあまり品がなく、たまには下品な言葉を口に出すことすらあったが、私にはそれが一種の話し癖のようにしか聞こえず、むしろ彼の個性をより発揮できるように思えた。彼は家では中国語しか話さないのに、不思議なことにスペイン語が驚くほど流暢だ。

 パナマでの最後の日は、曽(ツォン)大使夫妻と中央社の劉(リュウ)夫妻が従妹の家を訪ねて来た。実は大使夫婦とは十数年前にスペイン留学中に知り合っていたが、他人の世話になるのが何より嫌いなのでいきなり訪問することはためらわれた。しかし結局は従妹の家で会うことになり、大使の丁寧な説明を聞いてパナマに対してさらに理解を深めることができた。パナマにはただ親戚と会うことだけを考えて来たので、歴史や地理については調べていなかったのだ。

 三日間はあっという間に過ぎた。従妹と彼らの友達の温情あるもてなしを受け、同胞に対してまたもや借りを作ってしまったように感じた。出発当日の昼すぎ、従妹はまた大急ぎでワンタンを作っていた。たっぷり食べさせてから送り出したいという。彼女の気持ちは日々の私への接し方や食事からひしひしと伝わってきた。荷物の中には従妹が無理矢理押し込んだ中国のお菓子が入っている。深夜にコロンビアに到着したら食事ができないのではないかと心配したからだ。従妹の夫はミシャにしっかり私を守るようにと繰り返し言い聞かせた。友達が次々に私に会いに従妹の家に来た。彼らと会わない日は一日もなかった。

 空港は混雑していたが、万事に気配りが行き届き、抜け目のない従妹の夫が何もかも代わりにやってくれた。従妹は赤ちゃんを抱いて上の子どもたち二人の手をひき、向さん夫妻とお嬢さん、彭さん、応(イン)さん……、大勢の人たちが見送りに来ている。手荷物検査室に入る前に、みんなに向かって手を振り、ようやく顔を上げてこみ上げる涙を飲み込んだ。次に行く場所には中国人がいない。心に深く刻まれた同胞の愛に私は永遠に恩返しができない。パナマを立ち去ろうとしている私は同郷の人々のために涙を流している。こんなに足が重いのは、愛を引きずっているせいなのだ。

訳注

*1コロン・フリーゾーン

 コロン・フリーゾーンは免税地帯であり、1948617日に制定された法令により、パナマ政府の自治体機関として設立された。

| | コメント (0)

三毛の中南米紀行 -6-

何が起こるか分からない場所  コロンビア紀行 一

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158734.html

 道中持ち歩いている地図や資料や本が重くなる一方だし、細々とした持ち物も多く、荷物を引いて歩くのも疲れる。そこでパナマではとうとう荷物整理をして、服は一部を従妹に預け、メモの類はすでに記憶に留めてあるので思い切って捨ててしまった。常に手元に置いていた四冊のガイドブックのうち、オーストラリアとイギリスで出された本は内容が充実しているが、あと二冊のアメリカで出版されたものは偏見と傲慢に満ちており、しかも「現地ツアーに参加しましょう」というアドバイスで済ませているのが常なので、これらもゴミ箱の中に置いてきた。
 コロンビアという国については、ガイドブックには歴史地理と風土人情について非常に詳しく書いてある以外に、なぜか何とも単刀直入に「強盗国家」という呼称を使っている。客観的かつ公平な記述をしているガイドブックなのに、この百万平方キロメートル強の国家にこれほど手厳しい呼び名をつける蛮勇を見せるとは、いきなりの乱暴狼藉に驚かされる。ガイドブックでは旅行者にこう警告している――毎日一回は強盗や暴行が発生する危険な地域、昼でも夜でも、あるいは市街地か郊外かを問わず、決して気を抜かないように、さらにはこれを編集者の単なる脅しだと思ってはならない――。
 パナマの台湾農業技術団の蘇団長もここを訪問した際に強盗に遭ったそうだ。恐ろしいことに、蘇団長を襲った強盗は昂然と大手を振って悠々と立ち去り、慌てて逃げるそぶりが全くなかったという。ミシャはガイドブックの警告と蘇団長の経験談に怖気づき、私に行くのを中止しないのかと何度も聞いた。しかし私は強盗に遭う危険を冒しても、やはり行っておくべきだと感じた。ただし治安があまりに悪い場所のホテルには泊まらないことにする。台湾を離れる時、肌身離さず着けていたネックレスと私の名が刻まれた指輪を母に渡して来た。自分の指に嵌めたシンプルな結婚指輪をどうするか、着けたり外したりしながら考えたが、やはり外すに忍びなく、着けたままでここまではるばる旅をしてきた。飛行機がボゴダに到着した時、八年三ヶ月のあいだずっとはめていた小さなリングを外し、それを胸ポケットに隠した。指が空っぽになると、不慣れな感覚に落ち着かず、思わず感傷的になった。
 深夜の空港でタクシーに乗るのは避けるべきだ。だが、首都ボゴダは海抜二千六百四十メートルの高地で、私の心臓は早くも高度の影響を受け、手荷物を受け取る時にはすでに針で刺されるような胸の痛みが始まった。これ以上無理をするのはまずい。値段交渉を終えてタクシーに乗り、ある中級ホテルの名前を告げた。ただトラベラーズチェックとパスポートを預けられるセーフティーボックスがあるという理由だけで選んだホテルだ。ホテルに着くと運転手は七ドル多く払えと無理を言った。私のスペイン語が下手だから価格を聞き間違えたのだと言い張る。体の具合がよくなかったので運転手と言い争いはしなかった。これがコロンビアの第一印象だ。
 ホテルに二泊して、三日目に掲示板に小さなお知らせが貼ってあった。部屋代を値上げすると書いてある。しかも一気に二十七ドルも。つまり、一泊で一人六十七ドルもかかることになる。フロントに行き、これは全国的な宿泊費調整なのかと礼儀正しく尋ねてみると、このホテルだけだと答えた。彼らが値上げするのは自由だ。私がここから出ていくのもまた自由だ。
 ホテルを引っ越す日は凍えるほど寒く小雨も降っていたので、ほんの短い距離だったがタクシーを使わざるを得なかった。冬服は全てパナマに置いてきてしまったのだ。運転手がメーターを倒したままだったことに目的地に着くまで気づかなかった。要求された金額は絶対に不合理だったが、私は初めての高地でずっと体調がすぐれず言い争う気力がなかったし、ミシャのスペイン語は「おはよう」と微笑みくらいしか役に立たなかったため、またしても妥協せざるをえなかった。外国人をこれほど苛める国はほかにない。
 引っ越してきたホテルは、先月暴徒の強盗に遭い、たまたま部屋にいた奥さんが殺された。犯人は未だに捕まっていない。この事件が起きてから、出入りの取り締まりが厳しくなった。首都ボゴタに来る前の数日間、街を行く人がみなしっかりと鞄を抱えている様子に驚き、恐ろしくなった。いつ強盗に遭うかわからない。これほど大きな不安を感じながら生活していたら、誰でもいつかはノイローゼになってしまう。ミシャはここに来るやいなや、何も起こらないうちから勝手に怖がって必要以上に用心している。眠る時には寝室に鍵をかけるだけでなく、ドアの内側に椅子を置いてつっかい棒にしていたので、用があるたびに何度も呼んで問答してからでないとドアを開けてもらえなかった。こんな調子だったので、彼とはむしろ行動を共にしないことにした。彼に必要なのは自分自身で経験し納得することだ。いつも私の鞄持ちをし、私が建築様式や建築年代について説明するのを聞いているばかりでは彼のためにならない。食事も一人で行ってもらうことが多くなった。私は屋台が好きで、焼き立ての小さな丸パンと炭火で炙ったソーセージが気に入った。屋台の中年男は先に二十五ペソ払えと言う。私はお金と同時に交換しようと提案したが、彼は食べ物を渡したらそのまま逃げるだろうからどうしても先払いしろと譲らない。三十ペソ渡してパンとお釣りを待っていると、その男はお金を受け取ったのに私を無視してまた呼び込みを始めた。
「パンだよ、パン! パンはいらんかね」
「どうして私にくれないの? ソーセージが焦げてしまうじゃない!
「何をくれって? あんた、まだ金を払ってないだろう!」
 周りの露店商人たちが私を見て大笑いしている。私に背を向けても笑い過ぎて肩が震えている。また騙されたのだ。屋台の店主に二言三言文句を言ってはみたが、言い負かせないことが分かってこう言い捨てた。
「お金を受け取ったかどうかご自分がいちばんよく知っているはず、神のご加護がありますように!」
 そう言い終わって立ち去る途中でちょっと振り向いて彼に笑いかけた。彼は私から視線をそらし辺りを見回すふりをした。もし昔の私なら、誰の縄張りにいようと、夜どんなに遅い時間であろうと、自分一人であろうと、絶対にあの小さい屋台を叩き壊していただろう。そんな身の程知らずの私は、今はもういない。
 晩秋の高原の気候は、いつもこんな感じだ。肌寒さの中に憂鬱と詩情を含んだ風が吹いている。この国の首都は海抜が高すぎるので、心臓が弱い人にはあまり過ごしやすいとは言えない。
 いくつかのちょっとした不正直な例はさておき、ボゴタはやはり旅行してきた中で最も立派で風格のある都市だ。植民地時代の大建築物は何世紀もの栄光に輝いている。これまでの人生で百か所をくだらない数の博物館を見てきた。今回の中南米旅行でもすでに十二ヶ所目の博物館になる。しかしそこは世界「唯一」と謳っていたので、こらえきれずにまた行くことにした。コロンビアの「黄金博物館」には一万数千点近くの純金の芸術品が収蔵されている。それらを作った工具はその時代にあっても最も粗末な石塊と木の棒だ。金のアクセサリーの精巧さと細やかさは照明と濃い色の布で引き立てられ、ほとんど神秘ともいえる光芒が放たれている。
 特に目を引いたのは金で作られた一群の人形だった。嗅ぎタバコ*1を入れる小瓶ほどの寸法だ。彼らの容貌は、私から見ると、宇宙から来た空想上の「人」のようだった。金人形たちの肩には電線が絡み付き、背中には羽のようなものが付き、耳が外側に丸く膨らんでヘッドフォンをしているように見える。頭にアンテナの先端のようなものをつけた人形まである。まさしくSF小説に出てくるような造形だ。これらの造形を見ながら私はずっと考えていた。当時のこの土地の住民が、本当にこのような顔立ちと服装をしている人を目撃して、それに似せた金人形を作ったのだろうか。そんな想像をしながら私は友人の沈君山(シェン・ジュンシャン)教授を思い出した。もし彼がここにいたらきっと興味深い話が聞けただろう。博物館で最上階は大型金庫と同じで、警備員が中にも外にもいて、見学者は腕の太さより分厚い大きな鉄の門の内側に閉じ込められて鑑賞する。この大きな鉄の箱の中には角笛のような音楽がごく小さな音量で低くゆったりと流れている。室内には天井照明がなく、ただ積み重なった黄金の小山のような展示品だけにスポットライトが当たって、あなたに無言の真理を静かに伝えている。黄金こそが唯一の栄誉、美と幸福なのだ。
 厳重に警備された黄金製品の展示室を出て、太陽の下に戻ってくると、先ほどの秘宝の夢と窓外の人々とはまるで別世界のように思えた。階段を下りる途中、一人のアメリカ人女性が何度もため息をついて「あなたも欲しくなったでしょう、ほんの一部でもいいから手に入れたい。凄い、本当に凄いわ!」と私に話しかけた。黄金が誰の物かなんて問題ではない。命が消えたあとも黄金は永遠に残る。自分の一部でもない物は、幸いにも鑑賞できただけで有難いのだ。本当に所有してしまったら、それこそ面倒というものだ。
 中南米旅行では、大教会・アメリカのローストチキン・イタリアのピザ・中華料理店からは永遠に逃げることができないようだ。大小の教会は、別に見る義務もなく完全に自由意志に任されているとはいえ、足を踏み入れないとなると何となく自分はあまりに無関心で怠惰だと感じ、どうしても一通り見学しておかずにはいられない。むかし勉強した建築史の実物を実地に見学して大学の勉強を復習することにしよう。教会以外の三種類の食文化に至っては、ボゴタに来てからは完全に拒否している。どこにでもあるローストチキン、ハンバーガー、そしてマクドナルド、あの国家の食べ物と文化はとても受け入れられるものではない。中華料理店にいたっては、彼らが作ったものは中国料理とは言えない代物だ。ここでは華麗な大教会を見学してから壁の外にある屋台でタマーレ*2 ―バナナの皮に包んだ米料理で中国の粽(ちまき)のようなもの―と焼きトウモロコシを立ち食いすることが常である。こういう食べ物は人を太らせるだけで栄養価は乏しい。
 ボゴタは高原にある都市ではあるが、その周囲は山岳地帯である。山頂に大きな十字架が立っている山やイエス像が立っている山がある。さらにある小山の頂上には修道院があり、山の裾野からは純白の建物が見える。その白い修道院のある山頂にぜひ行ってみたいと思った。そこは「モンセラーテ」と呼ばれ、どのガイドブックにも、更にはコロンビアで印刷したツーリスト向けハンドブックでも、しつこいほど旅行客に警告している。曰く、「モンセラーテに行くなら、くれぐれもケーブルカーや登山鉄道を利用すること、徒歩で登ってはならない、この地域では必ず強盗に襲われるから」、と。街で道を聞いたときも、「タクシーに乗ってケーブルカーの乗車口まで行きなさい、あの地区を歩いて通ってはいけない」と言われた。それでも私は歩いて行くことにした。強盗に盗られるものなど何も身につけていない。
 山頂につくと、そこはすでに海抜三千メートル以上でまともに呼吸もできない。修道院もなかった。山のふもとで見たあの白い建物は教会だったのだ。その教会は建築中で、祭壇には金色の十字架が吊されている。祭壇のうしろの両側にある階段を登り切ったところには、ほの暗いロウソクの光に照らされたガラスケースにおよそ実物大と思しきイエス・キリストの彫像が入っている。十字架を背負い、血と汗を流しながら、地上に跪いたイエスの表情は非常にリアルだった。跪いたイエスの前には、長短の赤いロウソクに火が灯り、ケースのまわりには蝋で作られた小さな人形がたくさん置いてある。人の名前が刻まれているものや赤いリボンと一束の髪の毛が結んであるものもある。
 南米ではカトリックと原始的な巫術が結びついているようだ。このような身代わり人形を見ると思わず恐怖を感じる。再び顔を上げてみると、自分が登ってきた石段の両側の壁を埋め尽くすほどの数の杖が掛かっている。隙間なくぎっしりと掛かった木の杖は、ここで祈りを捧げて神の奇跡で病が治癒し歩けるようになった人々が奇跡の証として掛けていったものだ。ほの暗いロウソクの明かりに浮かび上がるおびただしい数の杖がとても不気味だ。壁のいたるところに札が貼ってある。姓名と年齢が書いてある札は神の奇跡に感謝する印として残していったものだろう。神の奇跡も、さらには巫術も、私はいずれも否定しない。結局は信ずる心が最も大きな力になるのだ。
 聖像の前の狭い地面に多くの人がひしめきあっている。一人の中年男性はやはり杖をつきながらやって来て、赤いロウソクに火を灯し、信心深い様子で地に倒れたイエスを仰ぎ見た。その目尻には涙が滲み出ている。この霊気に満ちた場所で、感受性が強い私は多くの霊魂が空気中に漂っているのを確かに感じた。あたりの空気に圧迫されて息がつけなくなり、自分には別に祈るべきことはないのに、心に何かこの上なく大きな無念さを抱えているような気がして、イエスの前で慟哭したくなった。
 教会を出るとボゴタ市の全景が眼下に広がった。景色は果てしなく広く静かだったが、友達の張拓蕪(ジャン・トゥオウー)と林杏子(リン・シンズ)のことを思い出した途端に私は喉が詰まった。彼らは二人とも足が不自由だ。教会内に戻って地面に座り一心に聖像を仰ぎ見た。話しかけこそしなかったが、神は私が心の中で切々と繰り返している名前がわかるに違いない。欧陽子(オウヤンズ)のためにも祈りを捧げた。ここにいる精霊が、歩けない人だけでなく見えない目も治してくれるかどうかわからないが。
 聖堂を出ると、私の右足がなぜか突然痙攣を起こし、痛さのあまり歩けなくなってしまった。足を引き摺って何歩か移動したが、激痛に襲われて座りこんだ。人を歩けるようにする神の奇跡の教会で、私は何故かいわれもなく歩けなくなった。私は神に向かって心の中でひたすら抗議し、「なぜ私の足に罰を与えたのですか、でもこれで私の友人の足が治るなら私が代わりになっても構いません」と何度も唱えた。答えは何もなかったが、足の痛みは消えた。お礼として友人に贈るために五つの小さい十字架を買い求めた。台湾に持ち帰った時、友人たちは首にかけてくれるだろうか。
 手元には何も盗まれるものはないといえ、ボゴタの街を歩く時は常に強盗に遭うかもしれない緊張感があることは否めない。街の警官は道端で毎日誰かを呼び止めては、壁に両手をついて立たせ、身体検査を行う。パトカーに押し込まれてしまうこともある。ここの警官のやり方もあまりに乱暴だ。ミシャはボゴタではずっとカメラを使っていない。たまたまカメラを持って出かけた時には少し心配になった。その日、私は市内の広場で日光浴をしながら、ほつれた服を繕っていた。ミシャは一人で下町に行くとのことで、四時間後に公園で落ち合う約束をした。夜までずっと待ってから私はホテルに帰ったが、ミシャはまだ帰ってきていない。強盗にカメラを奪われたに違いないと思った。実は、その日の午後、ミシャは二度も警官に職務質問を受け、パトカーに押し込められ、警察署に連れていかれたのであった。一回目はなぜか釈放され、何ブロックも行かないうちにまた別の警官に職務質問された。ミシャはパスポートのコピーしか持っていなかったので身分証明と認められずまたもや連行された。再び釈放され戻ってきた時にはもう夜になっていた。このような経験はミシャにとって別に悪いことではない。帰ってきた時には英雄のように得意げだった。この街は普通では予測できないことばかり起こる。それから警官を見かけると私は遠くに隠れるようになった。
 ボゴタを離れる二日前、バスで近くの小さい町に行き、岩塩鉱を掘って作った洞窟教会を見学した。心臓の具合がずっと思わしくなく、洞窟の淀んだ空気のせいですぐに出てきてしまったので何の収穫もなかった。
 コロンビアの出国空港税は一人三十ドルで、他の国とは比べものにならないほど高い。ボゴタでのエピソードを書いている今、私はエクアドルのアンデス丘陵地帯にある小さい町に滞在している。この地の空港でコロンビアから託送した荷物を受け取った時、バッグ類は全て開けられて衣類は引っ掻き回され、鍵をかけたスーツケースは刃物で切られて大きな口を開き、細々したものがいろいろ消えていた。全てボゴタの空港職員が私との別れの記念に受け取ってくれたのだ。これがコロンビア、非常に特殊な国である。

訳注

*1嗅ぎタバコ:鼻孔にすりつけて、香りを楽しむ粉タバコのこと。スナッフ。
*2タマーレ:トウモロコシ粉の生地を肉や香辛料とともに植物の葉に包んで蒸し上げた食品。具を包むのにバナナの葉が使われる。

| | コメント (0)

三毛の中南米紀行 -7-

村医者の孫娘――前世  エクアドル紀行一

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158736.html

その頃には、アンデス山脈の高原では心湖の物語はあまり語られなくなっていた。
 朝が来ると、私は素足で霧を突っ切って水を汲みに行く。鏡のような大きな湖に着くたびに恐ろしい昔話を思い出す。ずっとずっと昔、ここがまだインカ帝国の領地ではなかった頃、古代からカニャーリ族と名乗っていた私たちはインカ政府に税金を納めるのを拒否したため、彼らの強大な軍隊の侵略に遭い、戦(いくさ)が始まった。その戦で私たち一族は万人の死者を出し、私の曾祖父も含めて全ての戦士が殺された。インカの祭司の指示によって遺体は心臓をえぐられ、三万の心臓が故郷の湖に捨てられた。もとは銀湖と呼ばれたその美しい湖はその時から名を変え、「ハワコチャ」*1―「心の湖」―と呼ばれるようになった。
 戦が終わり、カニャーリ族はインカ帝国に帰属した。私たちの住む山間部は都市のキト寄りであったためアタワルパ王の領地になった。そのころ、インカ帝国のサパ・インカ王*2はすでになく、二人の王子がこのとてつもなく広大な帝国の領土を分割していた。ペルーのクスコにはワスカルというもう一人の王がいた。
 時は何事もなかったように湖畔を流れ、戦で夫を失った女たちも一人二人と死んでいった。その子供たちの世代も収穫の三分の二を帝国軍人と祭司に差し出さねばならず、生活は日に日に苦しくなっていった。そして、私の両親の世代はインカ国王の道路を建設する工事に徴用され、クスコとキトを結ぶ石造りの長い道を築いている間にまた多くの死者が出た。私の両親もその時に消息を絶った。母が故郷を離れる時、私はすでに物わかりのいい利口な子どもだった。水汲みや羊の餌やりだけでなく、天日に干したビクーニャ*3の糞を保存して燃料にすることもできた。母は私を父方の祖父に託し、しっかりした女性になって祖父が年老いたらよく面倒を見なさい、と私に厳しく言い聞かせた。母は色とりどりのビーズでできた長い首飾りをはずして私の首にかけ、私に背を向けて父と一緒に行ってしまった。私は泣きながら数歩追いかけた。母の背中には大好きな弟がおぶわれていたからだ。その時、私は六歳。六歳のカニャーリの少女だった。
 大半の村人は去って行った。残された老人と子どもは人数こそ少なくはなかったが、もともと静かだった山間部の村はよりいっそう寂れていった。祖父は賢く愛情深い人で、あまり大柄ではなかった。祖父と私は大きな雪山と湖に面した山の斜面にある家に住み、村には住まなかった。たった二人の家族ではあったが、それでも毎日は忙しかった。私たちはトウモロコシや豆やジャガイモを植え、ビクーニャと綿羊を育てた。畑の収穫は三分の一しか自分たちの物にならず、それ以外は公共倉庫に納めなければならない。私たちの土地には野生のサイザル麻が繁茂していた。寒冷な高原では麻織物は寒さを凌ぐには不十分で、動物の毛で紡いだ布の方が暖かい。母が去ってから麻糸を紡いだり布を織ったりする仕事は私にまわってきた。私たちは懸命に働いたが日々の生活は依然として苦しかった。着る服は数枚しかなく、私は長すぎる上着を踝のあたりまで引きずっていた。自分はもう大人だと思っていた私は、村の他の少女たちとはちがい、ボサボサに伸ばしっぱなしの髪のままでいることはなかった。毎朝、水汲みを終え、大きな岩の上で洗濯をした後には必ず湖畔で長い髪を骨の櫛で梳り、おさげをきっちりと一本に結ってから家に戻る。洗った服はいつもきれいな草の上に広げて伸ばし、夕方には取り込む。太陽と青草の香りのする洗濯物に嬉しくなり、その中に顔を埋めずにはいられない。
 平穏な日々の中にも、時おり村人が慌てて祖父を呼びに来るときがあった。祖父は必ず大きい薬袋を背負って出かける。決まって病人が出たときだ。幼いころは祖父がどんな人間なのか分からなかったが、人から村医者の孫娘と何度も呼ばれてようやく病人を治療する人のことを医者というのだと知った。村医者はインカの大祭司とは違い、宗教的なやり方では治療しない。だが私たちも神は信じていた。祖父は寡黙な人で、私に薬草について教えることもなかった。遠くまで薬草を取りに行き、数日間帰ってこないこともあり、そんなときは私一人で家を守った。少し大人になってからは、一人で高原をぶらついて普通の香草を採ってくることができるようになった。祖父は一度もそれをやめさせようとはしなかった。子どもの頃、友達はいなくても祖父の側にいるだけで楽しかった。
 薬草は家の畑には植えられないものだと考えられていた。私はなぜ薬草は畑ではなく草原で育てないといけないのか祖父に尋ねたことがある。祖父は、薬草は天からの秘密の贈物だ、薬が手に入れば病人とその家族は幸運だが、もし見つからなければ天の定めに従うだけだ、と答えた。当時十二歳の私はすでにかなり有名になっていた。祖父が留守の時に村の羊がお腹を壊せば、私は薬草を抱えて与えに行く。病気になったのが人であれば祖父に行ってもらうしかない。
 たぶん私が幼い頃に母親と別れて育った少女だったからだろう、村の中年以上の女性からはとても可愛がられた。彼女たちはみな私を村医者の孫娘と呼び、しょっちゅう花の髪飾りやビーズをくれた。私は薬草を採って帰る道すがら、彼女たちに香り高いユーカリの葉と天然の蜂蜜を分けてあげた。私たち温厚で静かな民族は何代にもわたってこの湖の周りに住んでいる。ここには緑の草原が広がり、空は高く青い。空気はいつだって薄く冷たいが、平原の伝染病は高地までは登ってはこない。作物を育てるのは難しく収穫も乏しいが、ビクーニャとアルパカはここで楽しく暮らしている。
 納税と祭典の時期になると、インカ帝国の伝令が村にやってきた。いろいろな形の縄飾りをつけ様々な色をした杖を持って、次々に労役と納税を通達し、私たちは常にそれに従った。インカ人が来るたび、心湖の物語が年老いた世代によって繰り返し語られた。そんな時、村の少女たちはしばらくの間は湖に水汲みに行くのを怖がるのであった。
 祖父と私は夜も滅多に灯りを点けなかった。私たちは小屋の入口にある石段の上に座り、湖と雪山がひっそりとした穏やかな夕暮れに消えていくのを見るのが好きだった。私たちは余計なおしゃべりはしない。インカ帝国は太陽を信仰する。私たち一族もまた太陽を崇拝している。寒冷な高原では太陽はあらゆる大自然の象徴であり希望なのである。もちろん雨季も必要だ。一年のうち、雨季は羊の妊娠期間よりも長い。羊やビクーニャが出産の季節を迎えるころ、ちょうど草原は緑に覆われ、湖も満々と水を湛えて面積を増す。
 一日また一日と、私は成長した。村の娘と同じようにトウモロコシをすり潰し、甘い香りのするパンを焼いて祖父に食べさせる。自分の生まれた土地で、私はひっそりと穏やかに暮らし、薬草に触れることをさらに好むようになっていった。
 ある日、畑から戻ると祖父が小屋の中でコカの葉を噛んでいるのを見て私は驚いた。村の男女の中には、コカの葉っぱをいつも噛んでいる人がいた。中には一生ずっと噛み続ける人もいて、そういう人たちは口の中に大きなへこみができていた。この葉を食べると気分が明るくなり興奮する。これは良くない薬草だ。祖父は私を見ると悪びれる様子もなく淡々と言った。
「おじいちゃんは年をとったよ。この葉っぱは血のめぐりを良くしてくれるのさ」。
私は祖父が少しずつ弱ってきていることにようやく気づいた。次の雨季が来る前に、祖父は寝ているうちに静かに息を引き取った。亡くなる前には、遠くの小屋にしょっちゅう出かけて一族の若い猟師と話し込んでいた。その猟師の両親もインカの道路工事に駆り出されてから消息がない。帰って来たときには祖父はいつもとても疲れた様子だった。私のとなりに座って夕暮れと夜の訪れを眺めることもできなくなっていた。彼は私の髪を少し撫で、「ハワ!」と低く名を呼んで、すぐに眠りに落ちた。
 私の世代の人々は誰も私を名前で呼ばず、みな私を医者の孫娘と呼んでいる。祖父は死ぬ間際に小さい声で私の名を呼んだ。ハワという、まさに「心」という意味の私の名を。母も同じ名前だった。彼女は祖父のたった一人の娘だ。祖父は私の名を何度も呼んでから、私から手を放した。私は孤児になった。祖父を亡くし、私は一人で小屋に住んでいる。私たち一族は、命は永遠であり人は何度も生まれ変わると深く信じている。私たちは自然の死を静かに受け入れる。一人で見る夕暮れは以前よりずっと寒々しい。私は小屋の入り口で相変わらず生まれ育った土地を眺め、それを幸せだと思っていた。
 その年、ハワという少女は十五歳になっていた。祖父が亡くなってまもなく、あの猟師の青年が斜面の家まで登ってきて私に言った。
「ハワ、おじいさんが君をうちに住まわせるようにって」。
私はトウモロコシ畑に立ち、その凛々しい青年をまっすぐに見つめた。彼も祖父に似ている。彼は手を伸ばし私の髪をそっと撫でた。彼のまなざしが陽光に照らされた湖面のように温かくなった。私は何も言わず、小屋に入って洗い立ての清潔な服を一包みまとめ、祖父の薬袋を担ぎ、壁に掛けてあったローブの束をこの猟師に渡した。そして門を閉めて、二人でビクーニャとアルパカの群れと祖父の老犬を連れて彼の家へと向かった。実は、私は幼いころに夫と会ったことがある。数年前、私の犬と山で喧嘩をしたのだ。彼は狩りをしていて、私は一人で薬草を採っていた。家に帰ったとき、犬が噛まれて怪我したことを祖父に告げ口した。祖父はその若者の仕業だと聞き、愛情深くそして意味深げに私を見て微笑むだけで何も言わなかった。祖父は私に内緒で結婚の準備をしていたようだ。
 新しい家で、私は更によく働く女になった。夫が家に帰る頃には、よく焼けたトルティーヤと野生の獣肉を煮込んだ料理を用意して待った。質素な小屋はすっかりきれいに掃除され、ユーカリの葉を燻した清々しい香りが部屋中に漂っている。私たち一族は大体が寡黙で控えめだ。愛情を言葉に表すことはない。夕暮れ時、一緒に家の前に座って月が登るのを黙って眺める時、私は夫が自分を痛いほど愛していることを感じた。
 その頃、村医者は私に代替わりしていた。祖父のやりかたに習って、病人を治療するのにいかなる報酬も受け取らなかった。なぜならこの素質は天から与えられたものであり、私たちは神に代わって仕事をしているだけだからである。結婚後も、夫は私に昔と変わらぬ十分な自由を与えてくれていた。独りで犬を連れて山まで薬草を取りに行くこともできる。ときには家が気がかりで、薬草が十分に採れていなくても帰りたくなった。家に夫の姿が見えればすぐに彼の元へ飛んで帰らずにはいられなかった。
 その頃、インカ帝国はすでに終焉を迎えようとしていた。二人の王が内戦を起こし、村の人々は戦の火の粉がこの山間部に飛び火することをしきりに心配した。私たちはすでにインカ帝国に帰属してはいたが、彼らの司祭や軍人には畏怖以外の感情はなかったし、納税することで一族の男たちを再び失わないことだけを願っていた。戦は北部のサラサガで始まり、その地の人々の大半が戦死した。北部キトのアタワルパ王が勝利し、ワスカル王は処刑された。
 内戦が終わってまもなく、夫が不思議な動物を抱えて帰ってきた。平地に住む人が白人から買ったもので「豚」と呼ぶそうだ。私たちはジャガイモを豚に与えた。その時は豚にどのような使い道があるのかも知らなかった。三匹のビクーニャをこの動物と交換するなんてまったく割に合わない。時には見たことのない種も村に伝わった。私は苗が青々と育つことを切に願っていたが、どんな作物ができるのかは知らなかった。白人に関する噂は風のように流れてきたが、白人がやってくることはなかった。ただ動物と小麦だけが村にもたらされた。
 平穏な日々が過ぎていき、私は幼い少女から大人の女性に成長した。祖父も、父も、母も皆いなくなったが、私は今また新たな命が世に送り出されるのを待っていた。村医者の孫娘として、分娩の危険性はもちろん知っていた。村の多くの女性がそれによって命を落としている。夕暮れ時、夫はよく私の手を握ってこう言った。
「ハワ、怖がることはない。赤ん坊が産まれる時は僕が必ずそばにいる」
 私たちは熱心にアルパカの毛を集め、毎日新しい布を織った。産まれた赤ん坊をフワフワした暖かい布でたっぷりと包んでやりたかった。その頃、私は出産を控えて、夫は外出せず付きっきりで私を守っていてくれた。彼が猟に出ないと夕飯は毎日トルティーヤだけだったが、豚は高価な対価を払って交換したものだったので殺してしまうのが惜しく、それに私たちは豚に愛着がわいていた。ある朝、目を覚ますと入口の大鍋の中に新鮮な魚が数匹煮てあるのに気付き、私は驚いて大声で夫を呼んだ。心湖には沢山の銀色の魚が飛び跳ねているが、百年もの間ずっと誰も捕りに行こうとはしなかった。そこには私たち祖先の身体が沈んでいるのだから。夫は畑から慌てて走って帰ってきた。私は魚を捕ったことを咎めたが、彼はこう言った。
「ハワ、医者の孫娘ならわかるだろう、子どもが生まれるのにトルティーヤだけでは栄養が足りない。これからは魚を食べよう」。
夫が毎晩こっそり湖で魚を捕っていることは徐々に一族に知られはじめた。彼らは私たちがいつか報いを受けると言っていたが、私たちはそんな陰口は気にも留めなかった。夫と互いに支えあって生きていくだけだ。出産についても村の老女には助けを求めないと固く決心していた。彼女たちは大したことはできないし、万が一ここに来たら夫は間違いなく家から追い出されてしまう。夫が側についていなければ不安でしかたない。
 寒い夜、陣痛が始まった。声を立てずに起き上がり、薬草を煎じて、眠っている夫を起こした。初めは二人とも慌てたが、その後夫に寄りかかって毛布に包まれながら入口の階段に座っているうちに気分が落ちついてきた。それが、私が最後に見た月明かりの雪山と湖、果てしない草原だった。三つの日の出と日の入りを必死に耐え、ハワという女と産まれる前の赤子は一緒に死んだ。ランプの側には彼女を一途に愛した夫が跪いていた。彼はハワの身体を抱き、氷のように冷たくなっても放すことはなかった。
 後の世のカレンダーでは十六世紀初頭、現在では南米インディアンと総称される女の平凡な一生である。
 ハワは十九歳でこの世を去った。


訳注

*1 ハワコチャ:Yahuarcocha、エクアドルのイバラにある湖。インカ帝国時代、三万個の心臓が投げ入れられたとの伝説を持つ湖。
*2 サパ・インカ:皇帝。ケチュア語で「唯一の王」という意味。
*3 ビクーニャ:原文は「駱馬」、アルパカ・リャマ(ラマ)・グアナコと近縁の偶蹄目ラクダ科に分類される偶蹄類。

| | コメント (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2016年6月 »