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三毛の中南米紀行 -6-

何が起こるか分からない場所  コロンビア紀行 一

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158734.html

 道中持ち歩いている地図や資料や本が重くなる一方だし、細々とした持ち物も多く、荷物を引いて歩くのも疲れる。そこでパナマではとうとう荷物整理をして、服は一部を従妹に預け、メモの類はすでに記憶に留めてあるので思い切って捨ててしまった。常に手元に置いていた四冊のガイドブックのうち、オーストラリアとイギリスで出された本は内容が充実しているが、あと二冊のアメリカで出版されたものは偏見と傲慢に満ちており、しかも「現地ツアーに参加しましょう」というアドバイスで済ませているのが常なので、これらもゴミ箱の中に置いてきた。
 コロンビアという国については、ガイドブックには歴史地理と風土人情について非常に詳しく書いてある以外に、なぜか何とも単刀直入に「強盗国家」という呼称を使っている。客観的かつ公平な記述をしているガイドブックなのに、この百万平方キロメートル強の国家にこれほど手厳しい呼び名をつける蛮勇を見せるとは、いきなりの乱暴狼藉に驚かされる。ガイドブックでは旅行者にこう警告している――毎日一回は強盗や暴行が発生する危険な地域、昼でも夜でも、あるいは市街地か郊外かを問わず、決して気を抜かないように、さらにはこれを編集者の単なる脅しだと思ってはならない――。
 パナマの台湾農業技術団の蘇団長もここを訪問した際に強盗に遭ったそうだ。恐ろしいことに、蘇団長を襲った強盗は昂然と大手を振って悠々と立ち去り、慌てて逃げるそぶりが全くなかったという。ミシャはガイドブックの警告と蘇団長の経験談に怖気づき、私に行くのを中止しないのかと何度も聞いた。しかし私は強盗に遭う危険を冒しても、やはり行っておくべきだと感じた。ただし治安があまりに悪い場所のホテルには泊まらないことにする。台湾を離れる時、肌身離さず着けていたネックレスと私の名が刻まれた指輪を母に渡して来た。自分の指に嵌めたシンプルな結婚指輪をどうするか、着けたり外したりしながら考えたが、やはり外すに忍びなく、着けたままでここまではるばる旅をしてきた。飛行機がボゴダに到着した時、八年三ヶ月のあいだずっとはめていた小さなリングを外し、それを胸ポケットに隠した。指が空っぽになると、不慣れな感覚に落ち着かず、思わず感傷的になった。
 深夜の空港でタクシーに乗るのは避けるべきだ。だが、首都ボゴダは海抜二千六百四十メートルの高地で、私の心臓は早くも高度の影響を受け、手荷物を受け取る時にはすでに針で刺されるような胸の痛みが始まった。これ以上無理をするのはまずい。値段交渉を終えてタクシーに乗り、ある中級ホテルの名前を告げた。ただトラベラーズチェックとパスポートを預けられるセーフティーボックスがあるという理由だけで選んだホテルだ。ホテルに着くと運転手は七ドル多く払えと無理を言った。私のスペイン語が下手だから価格を聞き間違えたのだと言い張る。体の具合がよくなかったので運転手と言い争いはしなかった。これがコロンビアの第一印象だ。
 ホテルに二泊して、三日目に掲示板に小さなお知らせが貼ってあった。部屋代を値上げすると書いてある。しかも一気に二十七ドルも。つまり、一泊で一人六十七ドルもかかることになる。フロントに行き、これは全国的な宿泊費調整なのかと礼儀正しく尋ねてみると、このホテルだけだと答えた。彼らが値上げするのは自由だ。私がここから出ていくのもまた自由だ。
 ホテルを引っ越す日は凍えるほど寒く小雨も降っていたので、ほんの短い距離だったがタクシーを使わざるを得なかった。冬服は全てパナマに置いてきてしまったのだ。運転手がメーターを倒したままだったことに目的地に着くまで気づかなかった。要求された金額は絶対に不合理だったが、私は初めての高地でずっと体調がすぐれず言い争う気力がなかったし、ミシャのスペイン語は「おはよう」と微笑みくらいしか役に立たなかったため、またしても妥協せざるをえなかった。外国人をこれほど苛める国はほかにない。
 引っ越してきたホテルは、先月暴徒の強盗に遭い、たまたま部屋にいた奥さんが殺された。犯人は未だに捕まっていない。この事件が起きてから、出入りの取り締まりが厳しくなった。首都ボゴタに来る前の数日間、街を行く人がみなしっかりと鞄を抱えている様子に驚き、恐ろしくなった。いつ強盗に遭うかわからない。これほど大きな不安を感じながら生活していたら、誰でもいつかはノイローゼになってしまう。ミシャはここに来るやいなや、何も起こらないうちから勝手に怖がって必要以上に用心している。眠る時には寝室に鍵をかけるだけでなく、ドアの内側に椅子を置いてつっかい棒にしていたので、用があるたびに何度も呼んで問答してからでないとドアを開けてもらえなかった。こんな調子だったので、彼とはむしろ行動を共にしないことにした。彼に必要なのは自分自身で経験し納得することだ。いつも私の鞄持ちをし、私が建築様式や建築年代について説明するのを聞いているばかりでは彼のためにならない。食事も一人で行ってもらうことが多くなった。私は屋台が好きで、焼き立ての小さな丸パンと炭火で炙ったソーセージが気に入った。屋台の中年男は先に二十五ペソ払えと言う。私はお金と同時に交換しようと提案したが、彼は食べ物を渡したらそのまま逃げるだろうからどうしても先払いしろと譲らない。三十ペソ渡してパンとお釣りを待っていると、その男はお金を受け取ったのに私を無視してまた呼び込みを始めた。
「パンだよ、パン! パンはいらんかね」
「どうして私にくれないの? ソーセージが焦げてしまうじゃない!
「何をくれって? あんた、まだ金を払ってないだろう!」
 周りの露店商人たちが私を見て大笑いしている。私に背を向けても笑い過ぎて肩が震えている。また騙されたのだ。屋台の店主に二言三言文句を言ってはみたが、言い負かせないことが分かってこう言い捨てた。
「お金を受け取ったかどうかご自分がいちばんよく知っているはず、神のご加護がありますように!」
 そう言い終わって立ち去る途中でちょっと振り向いて彼に笑いかけた。彼は私から視線をそらし辺りを見回すふりをした。もし昔の私なら、誰の縄張りにいようと、夜どんなに遅い時間であろうと、自分一人であろうと、絶対にあの小さい屋台を叩き壊していただろう。そんな身の程知らずの私は、今はもういない。
 晩秋の高原の気候は、いつもこんな感じだ。肌寒さの中に憂鬱と詩情を含んだ風が吹いている。この国の首都は海抜が高すぎるので、心臓が弱い人にはあまり過ごしやすいとは言えない。
 いくつかのちょっとした不正直な例はさておき、ボゴタはやはり旅行してきた中で最も立派で風格のある都市だ。植民地時代の大建築物は何世紀もの栄光に輝いている。これまでの人生で百か所をくだらない数の博物館を見てきた。今回の中南米旅行でもすでに十二ヶ所目の博物館になる。しかしそこは世界「唯一」と謳っていたので、こらえきれずにまた行くことにした。コロンビアの「黄金博物館」には一万数千点近くの純金の芸術品が収蔵されている。それらを作った工具はその時代にあっても最も粗末な石塊と木の棒だ。金のアクセサリーの精巧さと細やかさは照明と濃い色の布で引き立てられ、ほとんど神秘ともいえる光芒が放たれている。
 特に目を引いたのは金で作られた一群の人形だった。嗅ぎタバコ*1を入れる小瓶ほどの寸法だ。彼らの容貌は、私から見ると、宇宙から来た空想上の「人」のようだった。金人形たちの肩には電線が絡み付き、背中には羽のようなものが付き、耳が外側に丸く膨らんでヘッドフォンをしているように見える。頭にアンテナの先端のようなものをつけた人形まである。まさしくSF小説に出てくるような造形だ。これらの造形を見ながら私はずっと考えていた。当時のこの土地の住民が、本当にこのような顔立ちと服装をしている人を目撃して、それに似せた金人形を作ったのだろうか。そんな想像をしながら私は友人の沈君山(シェン・ジュンシャン)教授を思い出した。もし彼がここにいたらきっと興味深い話が聞けただろう。博物館で最上階は大型金庫と同じで、警備員が中にも外にもいて、見学者は腕の太さより分厚い大きな鉄の門の内側に閉じ込められて鑑賞する。この大きな鉄の箱の中には角笛のような音楽がごく小さな音量で低くゆったりと流れている。室内には天井照明がなく、ただ積み重なった黄金の小山のような展示品だけにスポットライトが当たって、あなたに無言の真理を静かに伝えている。黄金こそが唯一の栄誉、美と幸福なのだ。
 厳重に警備された黄金製品の展示室を出て、太陽の下に戻ってくると、先ほどの秘宝の夢と窓外の人々とはまるで別世界のように思えた。階段を下りる途中、一人のアメリカ人女性が何度もため息をついて「あなたも欲しくなったでしょう、ほんの一部でもいいから手に入れたい。凄い、本当に凄いわ!」と私に話しかけた。黄金が誰の物かなんて問題ではない。命が消えたあとも黄金は永遠に残る。自分の一部でもない物は、幸いにも鑑賞できただけで有難いのだ。本当に所有してしまったら、それこそ面倒というものだ。
 中南米旅行では、大教会・アメリカのローストチキン・イタリアのピザ・中華料理店からは永遠に逃げることができないようだ。大小の教会は、別に見る義務もなく完全に自由意志に任されているとはいえ、足を踏み入れないとなると何となく自分はあまりに無関心で怠惰だと感じ、どうしても一通り見学しておかずにはいられない。むかし勉強した建築史の実物を実地に見学して大学の勉強を復習することにしよう。教会以外の三種類の食文化に至っては、ボゴタに来てからは完全に拒否している。どこにでもあるローストチキン、ハンバーガー、そしてマクドナルド、あの国家の食べ物と文化はとても受け入れられるものではない。中華料理店にいたっては、彼らが作ったものは中国料理とは言えない代物だ。ここでは華麗な大教会を見学してから壁の外にある屋台でタマーレ*2 ―バナナの皮に包んだ米料理で中国の粽(ちまき)のようなもの―と焼きトウモロコシを立ち食いすることが常である。こういう食べ物は人を太らせるだけで栄養価は乏しい。
 ボゴタは高原にある都市ではあるが、その周囲は山岳地帯である。山頂に大きな十字架が立っている山やイエス像が立っている山がある。さらにある小山の頂上には修道院があり、山の裾野からは純白の建物が見える。その白い修道院のある山頂にぜひ行ってみたいと思った。そこは「モンセラーテ」と呼ばれ、どのガイドブックにも、更にはコロンビアで印刷したツーリスト向けハンドブックでも、しつこいほど旅行客に警告している。曰く、「モンセラーテに行くなら、くれぐれもケーブルカーや登山鉄道を利用すること、徒歩で登ってはならない、この地域では必ず強盗に襲われるから」、と。街で道を聞いたときも、「タクシーに乗ってケーブルカーの乗車口まで行きなさい、あの地区を歩いて通ってはいけない」と言われた。それでも私は歩いて行くことにした。強盗に盗られるものなど何も身につけていない。
 山頂につくと、そこはすでに海抜三千メートル以上でまともに呼吸もできない。修道院もなかった。山のふもとで見たあの白い建物は教会だったのだ。その教会は建築中で、祭壇には金色の十字架が吊されている。祭壇のうしろの両側にある階段を登り切ったところには、ほの暗いロウソクの光に照らされたガラスケースにおよそ実物大と思しきイエス・キリストの彫像が入っている。十字架を背負い、血と汗を流しながら、地上に跪いたイエスの表情は非常にリアルだった。跪いたイエスの前には、長短の赤いロウソクに火が灯り、ケースのまわりには蝋で作られた小さな人形がたくさん置いてある。人の名前が刻まれているものや赤いリボンと一束の髪の毛が結んであるものもある。
 南米ではカトリックと原始的な巫術が結びついているようだ。このような身代わり人形を見ると思わず恐怖を感じる。再び顔を上げてみると、自分が登ってきた石段の両側の壁を埋め尽くすほどの数の杖が掛かっている。隙間なくぎっしりと掛かった木の杖は、ここで祈りを捧げて神の奇跡で病が治癒し歩けるようになった人々が奇跡の証として掛けていったものだ。ほの暗いロウソクの明かりに浮かび上がるおびただしい数の杖がとても不気味だ。壁のいたるところに札が貼ってある。姓名と年齢が書いてある札は神の奇跡に感謝する印として残していったものだろう。神の奇跡も、さらには巫術も、私はいずれも否定しない。結局は信ずる心が最も大きな力になるのだ。
 聖像の前の狭い地面に多くの人がひしめきあっている。一人の中年男性はやはり杖をつきながらやって来て、赤いロウソクに火を灯し、信心深い様子で地に倒れたイエスを仰ぎ見た。その目尻には涙が滲み出ている。この霊気に満ちた場所で、感受性が強い私は多くの霊魂が空気中に漂っているのを確かに感じた。あたりの空気に圧迫されて息がつけなくなり、自分には別に祈るべきことはないのに、心に何かこの上なく大きな無念さを抱えているような気がして、イエスの前で慟哭したくなった。
 教会を出るとボゴタ市の全景が眼下に広がった。景色は果てしなく広く静かだったが、友達の張拓蕪(ジャン・トゥオウー)と林杏子(リン・シンズ)のことを思い出した途端に私は喉が詰まった。彼らは二人とも足が不自由だ。教会内に戻って地面に座り一心に聖像を仰ぎ見た。話しかけこそしなかったが、神は私が心の中で切々と繰り返している名前がわかるに違いない。欧陽子(オウヤンズ)のためにも祈りを捧げた。ここにいる精霊が、歩けない人だけでなく見えない目も治してくれるかどうかわからないが。
 聖堂を出ると、私の右足がなぜか突然痙攣を起こし、痛さのあまり歩けなくなってしまった。足を引き摺って何歩か移動したが、激痛に襲われて座りこんだ。人を歩けるようにする神の奇跡の教会で、私は何故かいわれもなく歩けなくなった。私は神に向かって心の中でひたすら抗議し、「なぜ私の足に罰を与えたのですか、でもこれで私の友人の足が治るなら私が代わりになっても構いません」と何度も唱えた。答えは何もなかったが、足の痛みは消えた。お礼として友人に贈るために五つの小さい十字架を買い求めた。台湾に持ち帰った時、友人たちは首にかけてくれるだろうか。
 手元には何も盗まれるものはないといえ、ボゴタの街を歩く時は常に強盗に遭うかもしれない緊張感があることは否めない。街の警官は道端で毎日誰かを呼び止めては、壁に両手をついて立たせ、身体検査を行う。パトカーに押し込まれてしまうこともある。ここの警官のやり方もあまりに乱暴だ。ミシャはボゴタではずっとカメラを使っていない。たまたまカメラを持って出かけた時には少し心配になった。その日、私は市内の広場で日光浴をしながら、ほつれた服を繕っていた。ミシャは一人で下町に行くとのことで、四時間後に公園で落ち合う約束をした。夜までずっと待ってから私はホテルに帰ったが、ミシャはまだ帰ってきていない。強盗にカメラを奪われたに違いないと思った。実は、その日の午後、ミシャは二度も警官に職務質問を受け、パトカーに押し込められ、警察署に連れていかれたのであった。一回目はなぜか釈放され、何ブロックも行かないうちにまた別の警官に職務質問された。ミシャはパスポートのコピーしか持っていなかったので身分証明と認められずまたもや連行された。再び釈放され戻ってきた時にはもう夜になっていた。このような経験はミシャにとって別に悪いことではない。帰ってきた時には英雄のように得意げだった。この街は普通では予測できないことばかり起こる。それから警官を見かけると私は遠くに隠れるようになった。
 ボゴタを離れる二日前、バスで近くの小さい町に行き、岩塩鉱を掘って作った洞窟教会を見学した。心臓の具合がずっと思わしくなく、洞窟の淀んだ空気のせいですぐに出てきてしまったので何の収穫もなかった。
 コロンビアの出国空港税は一人三十ドルで、他の国とは比べものにならないほど高い。ボゴタでのエピソードを書いている今、私はエクアドルのアンデス丘陵地帯にある小さい町に滞在している。この地の空港でコロンビアから託送した荷物を受け取った時、バッグ類は全て開けられて衣類は引っ掻き回され、鍵をかけたスーツケースは刃物で切られて大きな口を開き、細々したものがいろいろ消えていた。全てボゴタの空港職員が私との別れの記念に受け取ってくれたのだ。これがコロンビア、非常に特殊な国である。

訳注

*1嗅ぎタバコ:鼻孔にすりつけて、香りを楽しむ粉タバコのこと。スナッフ。
*2タマーレ:トウモロコシ粉の生地を肉や香辛料とともに植物の葉に包んで蒸し上げた食品。具を包むのにバナナの葉が使われる。

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