« 三毛の中南米紀行 -4- | トップページ | 三毛の中南米紀行 -6- »

三毛の中南米紀行 -5-

従妹のミニー  パナマ紀行

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158733.html

 また初めての場所にやってきた。

エアポートホテルの価格を見ただけで心臓がドキドキした。たぶん小さなホテルでも安くはないだろう。ここパナマは、アメリカン・スタンダードでアメリカン・スタイル、通貨も米ドルをそのまま使う。自国には硬貨しかなく紙幣は作っていないところもなかなか思いきっている。旅の費用は充分にあるし、ホンジュラスでは予算を超過してしまったが、他の国では余裕がある。だが、パナマで中級クラスのホテルに投宿した際にはあまりに割高なため心配になってきた。

 到着した日の晩、荷物を置いてポスコ・ビエホの地図を手にミシャと市内の中心部をあちこち歩き回った。もっと安いホテルを探したかったからだ。一部屋二十ドルほどのホテルを一軒見つけたが、見るからに不潔で怪しそうな男女が出入りしていた。そのホテルは皮肉なことに「理想ホテル」と名付けられている。入口に酔いつぶれた男たちがいるのはまだいい。少なくともそのまま動かないでいてくれる。むしろ、しらふの男たちのほうが始末に困る。ミシャが私の傍にいても手出しをしてくるからだ。私は立ち止まってそいつらを口汚く罵った。実のところ、彼らには本気で何かしようなどという魂胆はないのだが、ミシャはびっくりして何歩か走って逃げてからやっと振り向いた。こんなところには泊まれない。

 叔母の娘がここで何年も暮らしている。会いたいが、従妹の家族に気を遣わせるのがいやで、一晩中ためらっていた。ここを離れる日に電話した方がいいかもしれない。そうすれば彼女も私をもてなさずに済む。とはいうものの、パナマには四日間しか滞在せず、執筆の予定もない。親戚がどうにも懐かしく思え、ついに電話をかけてみた。それに従妹の連れ合いも私のお気に入りだったのだ。

 「ミニー!」という最初の一言で、電話の向こうにいる従妹は「平平(ピンピン)姉さん!」と大きな声をあげた。その悲鳴にも似た叫び声―あるいは彼女の普段の口調そのままなのかもしれないが―を聞くなり、私はいきなり言葉に詰まってしまった。従妹は異国に嫁いで十年、身内でパナマに訪ねて来たのは私が初めてだ。しばらくすると、従妹の夫からも電話がかかってきて、連絡をくれれば空港まで迎えに行ったのに何故もっと早めに連絡しないのか、と大げさに責めたてた。それから体の調子はどうかと聞かれ、もうすぐ退社時間だから妻と一緒に迎えに行くのでぜひ自宅に来てくれと言った。血縁者の思いやりと優しさに触れ、自分は旅の間中ずっと孤独だったことにはじめて気づかされた。一家全員に気を使わせるのは本意ではないが、従妹家族は私の来訪を一大事だととらえているらしい。感謝の気持ちで彼らのもてなしと招待を受けるしかない。ホテルのロビーで従妹たちの迎えを待っている間も私はそわそわしていた。ミシャは連れて行かない約束だったが、私の横に付き添って座っていた。

 従妹の夫は、見た目はあまり変わっていなかったが、以前よりも落ち着いた大人になっていた。従妹は偶然に出会っても気がつかなかったかもしれない。十年は短い時間ではない。髪を長く伸ばして物静かだった少女が、髪を短くカットした小太りで眼鏡をかけた中年女性になっていた。従妹は私の腕をとって歩き出し、ミシャも強引に車に乗せられそうになった。

「ミシャは行かないわ。身内の話もあるから彼は邪魔―」と私が制すると、

「話って?、話より食事が大事、まずはしっかりご飯を食べてもらわなきゃ。話はそれから!」。従妹は豪快に言った。

 十年前、従妹は二十歳、その夫はまだ二十四、五歳で、二人ともスペイン語が分からない若者だった。はるばるパナマに渡って時計の卸売りを始め今ではいっぱしの実業家だ。

 従妹は私と話をする時には上海語にところどころ寧波方言が混じる。こんなところはちっとも変わっていない。変わったのは彼女がラテンアメリカの気風を身につけてあけっぴろげで率直になったこと、スペイン語を流暢に話すようになったこと、それに気の強そうな話し方をするようになったことだ。異国での十年の苦労が少女を強い女性にした。もはやひ弱どころか勇猛果敢でさえある。

 私は従妹の祖母が上海で亡くなったことを食事中にうっかり話してしまった。彼女はすでに知っていると思っていたのだが、台北の叔母は彼女には知らせていなかった。その話を聞いた彼女は夫の肩を叩いて「徳昆(ドークン)、徳昆! おばあちゃんが、死んじゃった、死んじゃった!」と叫びながら今にも泣き出しそうになった。だが彼女は号泣する前に自分自身に言い聞かせて何とか気持ちを切り替えて落ち着きを取り戻した。初日の食卓で従妹にこんな知らせをしたことを何日も後悔した。まさか彼女が知らなかったなんて。

「二年前は、死ぬほど悲しかったんでしょう?」、従妹が料理を取り分けてくれながら私に尋ねた。

「私?」、と苦笑いしたが心の中は空っぽだった。

「お姉さんの旦那さまが生きていれば、私たち家族とスペイン語で話せたのに……

突然、私はこの生まれ変わった従妹に心から感心した。話す言葉も人に対する態度も真っ直ぐで曲がったところがない。お世辞も言わないし、特に慰めようともしない。その率直さこそが彼女の個性を際立たって美しく見せ、頼もしく感じさせるのだ。

たった四日間の滞在だったが、従妹の家に泊まるのは断った。毎日ミシャと合流するためだけに従妹の夫に迷惑をかけてしまうのを避けたかったからだ。それでも従妹の夫は仕事を休んでコロン・フリーゾーン*1にある会社には出勤せず、ミシャと私を色々な所へ連れて行って観光に付き合ってくれた。両替や、次の目的地までの航空券、食事などありとあらゆることを彼らに全て面倒を見てもらった。そのためパナマではバスに乗るチャンスがなかった。私は従妹より年上なのに、日常生活まで年下の彼女の家族や、さらには彼女の友達まで動員して、至れり尽くせりの世話になった。

また、同胞の親切にはコスタリカの時と同様に感動させられた。農業技術団の蘇(スー)団長とその家族が私に会うために従妹の家まで訪ねてきて、自宅での食事に招かれた。従妹の夫はそこまでしてもらうのは申し訳ないと言い、私もまた蘇夫人に迷惑をかけるのが心苦しく、招待を固辞した。結局、その翌日には大使館の陳武漢(チェン・ウーハン)夫妻、中国銀行の向(シアン)さん一家、蘇さん一家、彭(ポン)さん、宋(ソン)さん、そして従妹も加わって、テーブルが埋まってしまうぐらいのご馳走を作ってくれた。遠路はるばるやって来た従姉をもてなすため、ということだった。

  蘇家の娘たちは中国を離れて何年も経つが、家庭でしっかり教育されており今も中国語の本を読んでいて、私の読者でもある。武漢の奥さんも読書好きだ。人々が三毛をこんなにも愛しているのを見るとひどく不思議に思える。それなのに私はさほど彼女に関心を払わないのは何故だろう。三毛は自分の一部であるはずなのに。

 パナマは元々コロンビアの一部で、独立した時期にはアメリカが強力な後ろ盾となった。運河とコロン・フリーゾーンはこの国を繁栄させ、世界各地の銀行もここで資金を調達する。都会はまるでアメリカの都市のようで、街を走る車もほとんどがアメリカ製、英語は小学校から必修科目として学ばれる言語である。アメリカ側はすでに運河をパナマ政府に返還したが、まだ駐在米軍兵士は万人もいる。

 従妹の夫と従妹もそれぞれアメリカ製の大型車を所有し、休暇はマイアミに行く。アメリカ文化の影響を免れることはできないが、家庭では中国人以外の何物でもない。商売では各国の顧客を相手にするが、ふだん親しく付き合い、週末に呼ぶ友達はやはり中国籍の友人だ。従妹の住むオーシャンビューの高層マンションで従妹の夫は私にあっさりとこう言った。

 「外国暮らしなんて! 家では中国語を話して中華料理を食べているし、週末の朝は子どもにつきあって公園、午後は麻雀をしたり音楽を聴いたり。外の世界を見る必要なんて全くない。中国にいるのと同じさ!」。

 私はその話を聞いて笑った。彼の率直さと飾りのなさが好きだ。彼は外国人を全く気にせず、ただこの国で自分の商売をしているだけなのだ。この生き方も彼の自由だ。私には何も言うことはない。これもまた別のタイプの中国移民と言えよう。

もしもパナマの経済が下向きになる日が来たとしても、従妹の夫は困ることはないだろう。妻と子どもを連れ、次の国に行って市場に参入する。そこがまた自分の生きる場所になるのだ。中国人は風変わりで屈強な民族である。他の人種と違い、彼らはどこに行っても中国人のルーツを簡単に手放すことはない。従妹はパナマに来た時は何も分からない子どもだった。当初は会社のある自由区にほど近いコロム市に住んだ。この治安がひどく悪い地域に年も住み、そして経済的に余裕ができてからよううやくパナマ市内に引っ越した。コロムでの暮らしを思い出し、従妹は笑いながらコロンは「苦籠(クロン)」だったと言った。街中で強盗に二回も革のジャケットを奪われ、従妹はそれを無理矢理奪い返したそうだ。強盗に遭ったときは勇ましく行動したが、家に帰ってから急に怖くなって号泣した。中国の娘は長い十年を経て大人になったのだ。従妹の賢くて可愛い子どもと、互いに支え合う夫、そして大勢の中国人の友だちを見て、私はとても感動した。この十年の海外生活は生きていくための学びであり、彼ら自身の努力の結果でもある。

 ミシャは従妹と彼女の夫に魅了され、二人の「人間的な魅力」を何度も讃えた。従妹の夫のスペイン語はあまり品がなく、たまには下品な言葉を口に出すことすらあったが、私にはそれが一種の話し癖のようにしか聞こえず、むしろ彼の個性をより発揮できるように思えた。彼は家では中国語しか話さないのに、不思議なことにスペイン語が驚くほど流暢だ。

 パナマでの最後の日は、曽(ツォン)大使夫妻と中央社の劉(リュウ)夫妻が従妹の家を訪ねて来た。実は大使夫婦とは十数年前にスペイン留学中に知り合っていたが、他人の世話になるのが何より嫌いなのでいきなり訪問することはためらわれた。しかし結局は従妹の家で会うことになり、大使の丁寧な説明を聞いてパナマに対してさらに理解を深めることができた。パナマにはただ親戚と会うことだけを考えて来たので、歴史や地理については調べていなかったのだ。

 三日間はあっという間に過ぎた。従妹と彼らの友達の温情あるもてなしを受け、同胞に対してまたもや借りを作ってしまったように感じた。出発当日の昼すぎ、従妹はまた大急ぎでワンタンを作っていた。たっぷり食べさせてから送り出したいという。彼女の気持ちは日々の私への接し方や食事からひしひしと伝わってきた。荷物の中には従妹が無理矢理押し込んだ中国のお菓子が入っている。深夜にコロンビアに到着したら食事ができないのではないかと心配したからだ。従妹の夫はミシャにしっかり私を守るようにと繰り返し言い聞かせた。友達が次々に私に会いに従妹の家に来た。彼らと会わない日は一日もなかった。

 空港は混雑していたが、万事に気配りが行き届き、抜け目のない従妹の夫が何もかも代わりにやってくれた。従妹は赤ちゃんを抱いて上の子どもたち二人の手をひき、向さん夫妻とお嬢さん、彭さん、応(イン)さん……、大勢の人たちが見送りに来ている。手荷物検査室に入る前に、みんなに向かって手を振り、ようやく顔を上げてこみ上げる涙を飲み込んだ。次に行く場所には中国人がいない。心に深く刻まれた同胞の愛に私は永遠に恩返しができない。パナマを立ち去ろうとしている私は同郷の人々のために涙を流している。こんなに足が重いのは、愛を引きずっているせいなのだ。

訳注

*1コロン・フリーゾーン

 コロン・フリーゾーンは免税地帯であり、1948617日に制定された法令により、パナマ政府の自治体機関として設立された。

|

« 三毛の中南米紀行 -4- | トップページ | 三毛の中南米紀行 -6- »

翻訳」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 三毛の中南米紀行 -4- | トップページ | 三毛の中南米紀行 -6- »