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三毛の中南米紀行 -4-

中米の庭園  コスタリカ紀行 

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158732.html

この旅でスペインの文豪セルバンテスが書いたドン・キホーテとサンチョ・パンサの話を思い出した。物語に描かれたドン・キホーテは、想像力豊かで正義感があり、弱い者の味方をする気高い騎士である。彼は各地を渡り歩き、毎日のように空想の敵に向かって勇敢に戦いを挑む、言ってみれば夢見るナイトだ。従者のサンチョ・パンサは馬がないのでロバに乗り、どんなときもしっかりと主人に付き従っている。主人の日常生活を全て世話し、ドン・キホーテが怪物と対決する時にも逃げず、時には共に戦うことすらある。彼は心から崇拝しているドン・キホーテを決して裏切ることはない。もちろん、ドン・キホーテの「騎士道精神」とサンチョ・パンサの「忠誠心」は彼らに敬意を払った言い方にすぎず、客観的に見れば一人は頭がおかしな男、もう一人は妄想に付き合っている一途で気がいい男ということになる。

今回のツアーのメンバーは二人だけ、ミシャと私だ。そこでどうしてもドン・キホーテの物語を連想してしまう。はじめは私がドン・キホーテ、ミシャがサンチョ・パンサのはずだった。旅行に出て一ヶ月半が過ぎ、気がついた時には配役が変わっていた。サンチョ・パンサはなんと私のほうだったのだ。ミシャは言葉が通じないからサンチョ・パンサ役の私はご主人様にひもじい思いや寒い思いをさせないようにしなければならない。バーで絡まれそうになり追い払ったことが三回もあった。些細なことでご主人様を煩わせてはならない。この芝居ではミシャこそ主人のドン・キホーテだ。だがこのドン・キホーテは戦わず、性格はおとなしい。道中、私は自分の身分を思い出すたびに可笑しくてたまらなかった。深夜のコスタリカ空港で公衆電話をかけるために他人に硬貨を恵んでくれるよう頼んでいたときもミシャは荷物の横でのんびりと雑誌を読んでいた。生まれて初めて物乞いの真似をしたのは、飛行機が夜中に到着したため両替所がすでに閉まっており、手持ちはトラベラーズチェックと米ドルの高額紙幣しかなかったからだ。思いがけず一枚の小銭を手に入れた時はかなり嬉しかった。

ホンジュラスを離れ、コスタリカの首都サンホセでお湯が出るホテルに泊まれたときは、まるで夢のように現実感がなかった。ホンジュラス滞在中は移動に次ぐ移動のためにサンダルを一足ダメにし、足は水ぶくれと青あざだらけになった。心の底に沈殿したホンジュラスに対する嘆きは、かの国を出てからも消えることはなかった。

原稿を書こう、ペンを走らせよう! 休んでばかりいたら、この旅行が終わった時には仕事が山積みになってしまい、後悔することになる。

この一ヶ月で初めてミシャと仕事の反省会を開いた。これからは徐々に彼も仕事を分担するようにと話した。ホテル探し、航空券の手配、ビザ、フィルムの購入、両替、車の手配、下調べ、観光……、全てを私が手配すべきではない。彼はスペイン語日常会話の勉強にもっと力を入れなければならない。

ここまで話してから、ミシャを一人で取材に行かせ、自分は落ち着いて原稿用紙に向かってこれまでの旅行記の執筆に専念し始めた。食事に出た以外はどこへも行かずに部屋に閉じこもって雑念を捨てて執筆に没頭した。仕事が一段落したときにはコスタリカに来て一週間経っていた。この七日間、言葉が通じないミシャがどんなふうに生活していたのか私は全く気にしなかった。サンホセの女性は世界で最も美しいそうだが、ミシャにはガールフレンドの一人もできなかった。一度だけ、頭がおかしい女に追いかけられてホテルまで逃げ帰って救いを求めてきたため、私にこっぴどく叱らることになった。きれいな娘を追いかけず、逆に頭がおかしい女に追われて、慌てて逃げ帰って宿泊先を知られてしまうなんて、あまりに間抜けすぎるではないか。

 

中米の庭園

 コスタリカは中米のスイスと呼ばれ、首都サンホセの都心は栄えているとは言えないが、市場には物が溢れている。街はホンジュラスと比べるとレベルが違い、町を歩いている人たちの雰囲気も違う。西隣りはニカラグア、東はパナマと接する。面積五万千百平方キロメートルの平和な小国で、現在の人口はわずか二百万人ほどである。この国では教員のほうが軍人より多いそうで、それも面白い話だ。一九四八年にコスタリカは中立を宣言した。「治安警備隊」という組織が秩序を維持するのみで、軍隊を持たない国家である。聞くところによれば、スペイン人が十六世紀にこの土地に侵攻して占拠したとき、先住民のインディアンはヨーロッパから持ち込まれた伝染病でほとんど死に絶えてしまった。そのため、混血児は少なく、白人の割合が高い。

東部カリブ海側のリゴウ湾地区は、十九世紀末に「アメリカ連合果物会社」がバナナ栽培のためにジャマイカから沢山の黒人を連れてきた土地だ。黒人労働者の子孫は残ってはいるが割合は多くない。コスタリカは一八〇五年にキューバからコーヒーを導入し、政府は土地を提供してコーヒー栽培を奨励した。四十年を経てコーヒーは海外の市場に輸出されるようになった。さらに四十年後、国内鉄道はカリブ海と太平洋の二つの港湾を結び、今では世界的なコーヒー輸出大国の一つになった。この鉄道を造るために中国からきたクーリー*1たちは、黄熱病、劣悪な待遇、辛い労働のために四千人が命を落としている。一八九〇年のことだ。私は今でもサンホセからリゴウ湾をつなぐ鉄道に乗ってみようとは思わない。鉄の轍に押し潰されたのは、私たち中国人が払った血と涙と命だ。当時の中国人労働者は今日でも苦難を象徴する存在である。彼らを思うたびに泣きたい衝動にかられる。

 コスタリカは本当に美しい国だが、隅々まで見てまわる計画はなかったので、小休止のために立ち寄った場所としか考えず、遠出はしなかった。首都のサンホセからほど近い小都市二箇所と火山を訪れた。道中、清潔感のある美しい一戸建てが青い山の傾斜地に静かに立ち並ぶ様はアニメ映画の中にいるような現実味のない楽園に見え、夢のような風景であった。ここはホンジュラスではないが、やはり「青い鳥」と名付けられた大型バスが走っており、私は簡単に乗ることができた。中米に隠れていた幸せの鳥はこんなところにいたのである。

 

中国の農夫

 コスタリカには親友の妹の陳碧瑶(チェン・ビーヤオ)と彼女の夫徐寞(シュー・モウ)が何年も前から住んでいる。台北を離れる時、よく気がつく親友は彼女の妹の夫の会社の住所と家の電話番号を全て書いて渡し、コスタリカに着いたら必ずこの家族を訪ねろと何度も繰り返し念を押した。私はとても人見知りで、他人に迷惑をかけることが嫌いな性格でもあり、また原稿の執筆に没頭していたりしたので、サンホセを一回りした後も徐寞夫婦にはまだ電話をかけていなかった。だが内心ではかなりの葛藤があったのだ。徐寞は中興大学で農業を学び、農業技術チームに参加した。そしてアメリカの農業技術会社の専門家として大豆栽培を普及させるためにコスタリカに滞在しているだけでなく、同時に友人と共同経営する農場も持っている。彼は私とかなり性格が似ているはずだ。碧瑶は親友の実の妹で、十数年前に彼女がまだ少女だったころに会ったきりだ。訪ねて行かないわけにはいかないだろう。あと三日でここを離れてパナマに行くことになっているが、気が重い。人に迷惑をかけたくないし、人から親切に心からもてなされたりすれば、私は不安になってしまう。ようやく電話をかけて、口ごもりながら自己紹介をした。電話の向こう側で徐寞が三毛さんと叫び、お姉さんからとっくに連絡をもらっていると言った。続けて、碧揺も大声で夕食に来るようにと誘ってきた。ちょうど彼らの農場は大麦が豊作で、その日は中国人や外国人の沢山の友だちを招いたから必ず食事に来てくれと言った。

 その夜、徐寞は車で迎えに来てくれて、ミシャも強引に連れて行かれた。彼らの厚意をどうして断れるだろうか。徐寞と碧揺の家は、台北なら大富豪しか住めない庭付き一戸建ての平屋だ。だが彼らによるとコスタリカではごく普通の住宅ということだった。私は家が農場の中にないことに少しがっかりした。子どもが学校に通っているため、遠くにある農場に住むのは不便なのだそうだ。徐家族の二人のかわいい子どものうち、五歳の小文(シャオウェン)は家では中国語、学校ではスペイン語のバイリンガルだ。しかし彼女が描いた絵の中の人々はみなコスタリカ風の顔をしていた。その夜はこの地に定住している中国人同胞にも会うことができた。その中にはもちろん一緒に農場をやっている友人たちもいた。農夫たちの話し方は魅力的で表現力が豊かである。一人一人が理想や抱負、自分の土地に対して大きな情熱や夢を持っている。彼らは自分の農場を「小さな農場」と言うが、その面積を聞いたところ歩き終えないうちに力尽きてしまうぐらいの大きさだった。

 社交上のマナー違反を気にしなければ、おそらく一晩中ずっと農場経営の話に終始してしまっただろう。人生の目標を追求していくなかで様々な経験をした後の唯一の心残りは土地に対する執着だからだ。夢にまで思い描いた自分の農場。誰が永遠の旅人として放浪することなど望むだろう。いつか、手の中に自分の土地の土を握りしめ、青々とした穀物の穂が快晴の下でそよ風に吹かれてゆっくりと成長するのを見ながら、一年の収穫を計算する。その地に足がついた心情は私にとって、晩年の最高の答えである。

 徐寞と碧揺は、私の連絡が遅すぎることを責めた。もっと早く知らせてくれれば農場と田舎を見ることができたのに、と。最後に徐寞は、私とミシャを田舎に連れて行くため出発を遅らせることはできないのかと聞いたが、スケジュールは変更できなかった。田舎に行って人生をもう一度大きく変える勇気がなかったからだ。現実と理想の間には距離があるものだ。一か八かの勝負に出て、また一から学びなおし、辛い思いをして土地をしっかりと理解し、そして土地に自分自身をゆだね、一人の農婦になることを恐れたのだった。

徐寞はミシャと私をホテルへ送ってくれる途中で子どもの話をした。

「娘も将来は農業を学んでほしい」と彼は言った。その話を聞いて心の中でとても感動した。彼は土地に対して、農夫の生活に対しての一途な愛を、この何気ない一言で明らかに表している。私たちの世代の移民は昔とは違うのだ。

 コスタリカは土地が広くて人口が少なく、情勢は安定している。気候は穏やかで、人々は親切で誠実である。我が国で農業を学ぶ青年は、台湾では土地に限りがあるだけでなく資金を必要とするため大きな仕事ができにくい。もし最初の十年の苦しい経営を恐れないのであれば、ここは確かに試してみる価値のある場所だ。苦しみに耐えることと、苦しむことを恐れない中国人の気質さえあればコスタリカは楽土となる。

 以上の話には私の極めて主観的な感情と好みが含まれている。実際、移民の辛さとやりがいについてはそれぞれ異なる味方があるだろう。一人一人の機会も平等とは限らない。自分はこの道に進む、と決めたとしても成功するかどうかは自分の覚悟次第だが、その覚悟だけでは希望が叶う保証は半分でしかない。所詮、農業は大自然のルールに自分の運命をゆだねる生業なのだ。

 

もう一種の移民

 サンホセは人口三十万人に満たない首都だが中華料理屋が多く、数歩歩くごとに一軒見つかる。何軒か行ってみると、経営状態はあまりいいとは言えないのに、値段は不公平なぐらい安い。おそらくレストランどうしの競争が激しく、値段が高いと商売にならないのだろう。ある中華料理屋で翁(ウォン)さんと知り合った。お互い寧波人だから話にも親近感がわく。その晩はメニューにある料理ではなく、翁さんが特別に「魚の姿蒸し」をごちそうしてくれた。この同郷人の親切にはお返しする術がない。中国人は中国人に対しては決して飲食で不満を持たせることはしない。やはり私たちは美食文化の民族なのだ。翁さんはコスタリカに来て五年、ここの女性を妻にした。ゼロから起業したが、歳はミシャより二、三歳ほど上にすぎない。有能な青年であり、話の端々から中国語のレベルも高いことが分かった。知識は幅広く、人の気持ちもよく理解してくれる。自分の家庭と国を愛し、自分のルーツを忘れず、異郷で活躍している。彼の年齢を考えれば、これは容易いことではない。だからこそ、この世代の移民、我が台湾の移民がコスタリカで多くの素晴らしい成果を上げているのだ、と私は再確認した。

 

また来たい

徐寞と碧揺にもっと早く会えば良かった。彼らの長女、あの可愛らしい小文にも私は心を奪われた。もう一人の子はまだ小さすぎて、あまりコミュニケーションができない。碧揺はスペイン語を流暢に話す。コスタリカに来た当初は水道も電気もない農場に住み、どんなに苦しい生活にも耐えてきた。そして現在は夫を支えながら子どもをしつけ、自分の生活や仕事を楽しみながら過ごしている。農場と将来のことを話すときも、彼女が自分で選んだ人生を深く愛していることがわかり、この点でも彼女を尊敬した。三日間一緒にいて、そのうち二日は碧揺が料理やギョーザを作り、私とミシャに食べさせてくれた。徐家の友達は皆フレンドリーだ。更にうれしいことに互いに話が合い性格も近い。皆さっぱりした人たちだ。もともと別離の情もわかないはずの異郷だが、彼らとの友情を思って、コスタリカをまた戻ってこようと何度も思ったのだった。

 

異郷人

 この旅では、コスタリカは休養のために来たのでリラックスして過ごした。ひとり公園に座って人間観察をしたこともある。一人の落ちぶれた中年がポップコーンを売っており、大きい袋を担ぎ公園の中で一人ひとりに声をかけていた。三、四周まわっていたのを黙って見ていたが、一つも売れなかった。しまいには彼は私の隣の長いベンチに座って、下を向いてうなだれ、もう売りに行かない様子であった。

「どうして私には売ってくれないの?」と笑いながら彼に聞いてみた。

彼はびっくりして頭を上げ、すぐに袋を開けて紙袋を取り出し、一包みいくらのものが欲しいか私に聞いた。私はポップコーンを受け取り、今日はどのくらい売れたのか尋ねると、彼は突然目を潤ませ、商売は難しいと言った。もとはキューバからの難民で、奥さんと子どもを故国に残して来た。家族は彼が異郷で成功して迎えに来るのを待っている。

「何ヶ月かポップコーンを売っているけど、一日三食を食べるのも難しい。ビザが出ればアメリカに行きたいがアメリカには入国保証人になってくれる知り合いはいない。私より早く来たキューバ人はここで三年も待っている。でも私は……」                     

私は静かに話を聞きながら彼が何度も涙を拭いているのを見た。その止まらない涙の中にはどれだけのやるせなさ、苦労や郷愁が含まれているのか。

「このポップコーンはあなたにあげます。これまでこの異郷で誰とも心を打ち解けて話をしたことがなかった。話をしたら少し楽になりました。受け取って下さい」

 彼は私に小さい袋を手渡して立ち上がり、ゆっくりと歩いていった。ポケットの中をさぐると小銭が残っていたので、あわてて彼を追った。彼の服のポケットに小銭を入れ、何も言わずに逃げた。その人は後ろからずっと叫びながら追いかけてきた。

「奥さん! 奥さん! 待って下さい……」

そんなに多い金額ではなかったので、自分でしたことが恥ずかしかった。他人に同情するときは人を傷つけないよう注意するべきだ。だが、お金は最も現実的なものだ。コスタリカに到着した初日、私も他人から一枚の銅貨を恵んでもらった。私と同じ異郷人にこのお返しをしよう。私は男が涙を流すのは見ていられない。彼らの涙は女と違うからだ。

 

出発

サンホセは十八世紀末にできたばかりの都市で、確かに住むには良いところだが、建物や情緒には時間によってしか刻まれない歴史の重みが足りない。ここにはインディアンがいなかったことも、私をひきつけなかった原因の一つだ。コスタリカは文明的すぎた。歩きすぎて靴が一足ダメになったので、ここでまた新しい靴を買い、更に長い道を歩く準備をした。立ち去る時、徐寞のジープに乗り、洗われたような青空と緑色の平原を見ながら、農場のことを考えた――私は何か別の理由で再びここに戻ってくることがあるだろうか?

飛行機に乗る前、ミシャに徐寞の写真を撮ってもらった。中国の素晴らしい青年たちが海外でおさめた成果と栄光を忘れるべきでないからだ。

訳注

*1クーリー(苦力):アジア系の外国人単純労働者

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