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三毛の中南米紀行 -3-

青い鳥の辿りつけない場所  ホンジュラス紀行 

http://www.kanunu8.com/book3/7180/158731.html

メキシコからホンジュラスへのフライトはわずか二時間、私たちはホンジュラスの首都テグシガルパの飛行場に降り立った。

飛行機を降りるとすぐ銃を担いだ軍人が見えた。生まれて初めての経験というわけではなかったが、やはり軍服を恐れる癖は直らない。私にとって軍服は一種の静かな権力の象徴だ。この気持ちは自分でもどうにもならない。パスポートチェックを受けるため列に並んでいた時、私は一人の軍人と黙って対峙し、お互いにじろじろ睨み合っていたが、結局私が先に笑ってしまった。それにつられて彼も笑ったので、近づいて行って一言二言世間話をしたおかげで少し心が軽くなった。

寂れた税関で、入国審査を待つ旅行客もまばらだった。そこで出会ったアメリカ人はエルサルバドルに流れこんできた難民を連れて国境のはずれまで仕事をしに行くそうだ。アメリカ人に旅の目的を聞かれ、私はただ旅行をして見聞きしたことを原稿に書くだけだと言った。こういう人に会うたびに、自分の生き方は身勝手だと感じる。

私たちは鎖で仕切られたガラス張りのゲートの中にいたが、審査が終わった順に一人ずつ審査済み証明書を軍人に見せて空港から出た。ミシャと私は外に出たとたんに沢山の物売りに取り囲まれた。両替をするだの、スーツケースを持つだの、タクシーを呼んでやるだのと言ってきて、さらには足を抱えて靴を磨こうとする人までいた。初入国にして直ちにホンジュラスの生活の厳しさを目の当たりにさせられたのだ。私はミシャに荷物の傍に座っているように言い置いて、自分で両替しに行った。旅客サービスカウンターにも行き、前もってガイドブックで調べておいたホテルに電話をしてもらうよう頼んだ。

ホンジュラスの首都には世界的チェーンホテルは四、五軒しかない。こうしたホテルは豪華で設備も完備している。しかしローカルなホテルに泊まることもできる。当然のことだが、一泊十ドルでは風呂付の部屋や温かい湯は期待できない。

 この国の貨幣は「レンピラ」と呼ばれている。これはもともと十六世紀スペイン人との和平交渉の最中に殺されたインディアンの大酋長のことだ。今日までホンジュラスの人々は彼の名を幾度となく語り――そして貨幣となった。二レンピラは一ドルだ。

 飛行場から市内までタクシーでは十二レンピラだったのでミニバスを探したが、車掌がドアの横に立っているようなバスは十二人しか乗れず、すでに満席だった。そこで再びタクシー乗り場に戻って交渉し、大酋長六枚まで値切って乗車した。

西暦一五〇三年、コロンブスがホンジュラス北部の海岸に上陸した時、港の水深からその土地の名を「ホンジュラス」と名付けた。スペイン語で「深い」という意味だ。

発展途上国とか先進国とかいう呼び名は好きではない。結局のところそれぞれの民族にはそれぞれの生活スタイルがあるだけであって、そもそも建国の条件からして不平等なのである。そうはいっても、車で六キロ走って見たホンジュラスはどこも寂れて哀愁が漂っていた。そして、インディアンの言葉で「銀の山」という意味を持つ三十万人の首都も貧しそうだった。ここは中米で二番目に大きな都市で、面積は十一万二千八十八平方キロメートル、四十五パーセントが山脈に覆われ、人口は今のところ三百万人ほど、蔗糖やコーヒー、バナナ、綿花、それとわずかな金と錫を産し、牛肉の輸出も始めているようだ。

 ホテルに着くとベッドが一つあるだけで他の家具は何もなかった。廊下に四角いテーブルがあったので、私はそれをもってきて、書き物をする場所を確保した。ミシャがベッドの上でノミが跳ねていると言ったので見に行くと、毛布は確かに汚かったが虫は見つからなかった。おそらく彼の心理的なものが作用したのだろう。確かにそのホテルを最初に見たときには少なからず怖じ気づいた。

街中にあるレストランはかなり値段が高い。ここの国民の収入から考えたら、こんな値段で生きていけるのだろうかと疑問を持つほどだ。道を歩けば物乞いにつきまとわれる。

初日の夜、洗面所の水道水を飲んでひどい目にあった。恐らく大腸菌に汚染されていたのだろう。激しい嘔吐と下痢が止まらず、ベッドから起き上がれるようになったのは二日後だった。ホテルで死にかけているとき、ミシャは中国から来た同胞がやっている「マヤ商店」に行って熱いお湯をもらってきてくれた。もしあの時のお湯と人参茶が私を救ってくれなかったら、あと二日間は起き上がれなかっただろう。

 三十万人の首都は特に見どころはなかった。十六世紀初頭には小さな鉱山町だったこの場所には今でもスペイン植民地様式の教会や建築物が残り、街道の一部には依然として石畳のものもある。街中にはいくつもの中華料理屋や雑貨屋がある。我が同胞はあらゆる機会を逃さず世界各地で生活している。ホンジュラスのような貧しく暗い土地にさえ定住しているのを見ると、なんとも言い表しがたい感情がこみあげる。

 この地の純粋な先住民であるマヤの末裔を見つけることはできない。九割は混血で褐色の肌をしている。その他に北部の海岸から来た黒人が少数いる。彼らは街で仲良く暮らしている。山岳地帯の都市は全体的に乱雑で無秩序ではあるが、塵の中に浮かぶ建築物に目を凝らすと美しい。狭い石畳の古い通り、赤や黄、青や緑に塗られた子どもが描いた絵のような家には芸術的な美しさがあるとしか言いようがない。だがこの街に滞在中、常に悲しみと息苦しさを感じた。たぶん全ての建物の色が濃すぎるのと道が汚すぎるために息の詰まるような不快感を覚えるのだろう。だがキラキラとした都会の煌めきはまた別物だ。ホンジュラスの首都の夜は濃密で決して淡く溶けることのない夢のようだ。ほの暗い夢の中で、色とりどりでありながら薄ぼんやりとした狭い路地を迷い歩く。手を伸ばして人に物乞いをするかわいそうな子どもの顔と足音が悲しげにつきまとう。

ここでは純白の車体に赤いラインを入れた大きなバスが街中を走っている。様々な色と形のバスがひっきりなしに人を乗せているので交通機関は意外にも便利で早い。私が特に気に入った美しいバスは童話の題名から名付けられている――「青い鳥」だ。青い鳥は幸福の象徴であり、人々のたどり着けない夢として描かれたが、ホンジュラスの町では頻繁に行き交っている。

 私は広場のベンチに座って地図をひろげた。その晩は、選挙の広報車が党の旗を掲げて大音量で音楽を流しながら行ったり来たりしていた。小さな屋台は首を長くして客を待ちわび、一人のホームレスが私の足元でぐっすりと寝ている。物乞いの老女が街角で叫んでいる。どうやら仕事にありつけていない何人かの靴磨きの子どもが通行人を追いかけて数枚の銅貨を稼ごうとしている。向かいの大教会の階段からきちんとした見なりをした幸福な家族がミサを終えて出てくる様子も時おり見えた。

 こんな失楽園の絵のような街を「青い鳥」という一台のバスがゆっくりと通り過ぎていく。幸福が目の前を通り過ぎ走り去っていく。広場にいる全ての生きとし生けるものは、私を含めこのバスには乗ることができない。

「あなたの行きたい場所には、青い鳥に乗っても辿りつけない」。長距離バスの人は穏やかに言った。

 ホンジュラス国内では千四百キロを旅する計画だ。手段はもちろん長距離バス。実際、青い鳥ではそこまで辿りつけないことは知っていた。なぜならこれから行く小さな町と村落は現地の人以外だれも目を向けないような所だから。

 そこはグアイマカでたった一軒のホテルだった。中庭を囲む建築様式のホテルには井戸がある。花壇が植えられ、鶏が飼われ、主人一家の洗濯物が干してある。子どもが廊下で追いかけっこをし、女は炊事洗濯をし、つばの両側を巻き上げた帽子をかぶった四人の男たちはトランプを囲んでいる。私は中庭で静かに中国語の本を読んでいた。腸炎が治ったばかりだったので、一日目は首都から百キロも離れていないこの町に泊まることにした。

 平屋の天井板は既に朽ちていた。小さな黒い虫が次々に部屋の中に落ちてくる。ベッドの上には毛布はなく、白いシーツにはびっしりと虫がいて、防ぎきれない。

「僕はこのベッドでは寝られないよ」。ミシャが部屋から出てきて言った。

「大丈夫、夜はシーツの下で寝ればいい」。私は振り向きもせず言い放った。

 気温がやけに低い。この毛布もくれない小さなホテルは、宿泊費が一部屋二十レンピラで虫が雨のように降ってくる。だがここがこの町で唯一の宿なのだから仕方がない。

ホテルの人たちに二日目に行く予定の、車で七、八時間の渓谷、マラガという原住民の村について尋ねたが誰も知らないようだ。彼らはずっとラジオのサッカー中継を聞いていてあまり話したくなさそうだった。

この町はホンジュラスの旧都だが、テグシガルパに銀鉱山が見つかって現在の首都になった。一本の長い大通り、数十件の小さな店、なくてはならないスペイン大教会、数十件のレストラン。これが唯一の風景だ。もちろん、申し訳程度にマヤの文物を並べた所謂「博物館」という小さな建物もあった。

私たちはこの町の一軒の雑貨店の裏に暗い食堂を探しあてた。料理は選べない。老女が煮崩れた豆と二塊の固い肉、それに現地特産のブラックコーヒーを出して六レンピラ受け取った。三ドルに相当する金額だ。同じものを食べていた警官も同じ金額を払っていた。

 新聞社がくれた金は潤沢ではあったが、ホテルにしても食堂にしてもこのレベルにしてはやはり高すぎる。さらに、ここの写真フィルムの値段の高さには気が滅入る。ミシャはメキシコからフィルムを一巻持ってきたが、私たちのカメラは三台あるのだ。

 夕暮れ時、私たちは特に目的もなく街中をゆっくり散策していた。その時、教会から大きな鍵の束を持った老人が出てきたのを見つけて私は早足で彼のほうに向かった。

「行こう、ミシャ。面白そうよ、塔の上に登らせてもらおう!」。

老人は私たちを時計塔の上まで連れて行ってくれた。六つの銅の大時計はスペイン王フェリペ二世の時代の寄贈品で、現在もこの町のシンボルである。その老人はこの時計塔を見守って過ごすことを生涯の仕事としてきた。

私は塔の小窓を跨いで教会の屋上に出て、小走りに行ったり来たりした。今までの人生で教会に何度通ったか分からないが、教会の屋上を走り回ったのは初めてだ。こんなことをして主の意向に反しないかとも思ったが、神は私がこのように喜んでいるのを見ればお怒りになることもあるまい。いずれにせよ、この小さな町でできることは限られている。

 ミニバスでの旅行は、最初は確かに目新しく面白いものだった。車掌ということになっている十七、八歳の少年がドアの外に身を乗り出していて、道で手招きする人がいれば車がまだ停まらないうちに飛び降り、何のためらいもなく乗客の積み荷や手荷物の出し入れを手伝う。その態度は親切でごく自然だ。彼は必死に人と荷物を入れる隙間を探してはバスに詰め込んでいく。車内はイワシの缶詰のようにびっしり混み合っている。荷物の中にはもちろん生きた動物もある。痩せた豚と二羽のニワトリがいた。豚は劣悪な環境を恨んでずっと鳴いていた。一組の夫婦が一台のコンロを持って道端でバスを待っていた。当然コンロも押し込まれた。夫婦はコンロの傍で幸せそうに寄り添っている。それが世界でたった一つの大切なものなのだ。

 埃の舞い上がる道の傍にバスが停まり、一人の女が布包みを持ち上げて泥と木でできた小屋の前に降りた。小屋の中からボロを纏った数人の子どもが飛び出し、待ちきれない様子で母親に駆け寄って手にしたクッキーをもらっていた。なんと味わい深い、名画のような光景だろう。

 ここは青い鳥の辿りつけない場所。人々はその名を聞いたこともなく、夢見たこともない。

 ミシャと私は村や小さな町を通り過ぎて進んだ。極貧の地域では、土でできた部屋の中にはハンモックが一つあるだけ。窓は壁に穴を穿っただけで木枠も風よけのガラスもない。女と何人もの子ども、そして壮年の男がぼうっと門の前に座り、車が過ぎていくのを見ている。彼らの家は傾斜した土地にあり、オレンジの木や数本のトウモロコシが植えられている。何も植えていない泥でできた小さな家も素朴で分をわきまえた感じで立っており、特に不満もなさそうである。

雨が降ってきた。土で作られた家が流されてしまわないかと心配しながら、祈りにも近い気持ちでどうにか止んでくれないかと願った。

 ホンジュラスの景色は絵画のようだ。松林や河、山、深い青色の空、草原に群れを成す牛や羊。どこを見ても一幅の迫力のある風景が広がっている。ただし、私は途中で出会った貧しい人たちの顔だちと眼差しが忘れられず、彼らの善良で恥ずかしげでしかも常に微笑みをたやさない表情が心に焼き付いて、道中ずっとやるせない気持ちが消えなかった。

 旅を始めてから十日が経ち、ホンジュラスとグアテマラの国境に辿りつい。マヤ人の都市として有名なコパン遺跡はジャングルの中にある。首都からここまで寄り道をせずに来ればこんなに時間はかからなかったはずだ。しかし、村ごとに泊まっていたのでいつの間にか日々は過ぎていた。

 生まれて初めて全身をノミに噛まれて体中どこもかしこも赤い斑点だらけで、髪の毛の中もものすごく痒くなった。だが、こんなに寂れたところで宿が見つかったのだから文句は言えない。私はやはりこのような旅が好きだ。カフェで空論を並べ立てるよりずっと充実している。

 コパン遺跡と呼ばれる地域についた。なんとか水と電気は通っている。まずまずのホテルが二軒あったが、ひっそりとしていた。私は何より先にお湯は出るのかと尋ねたが、残念な答えしか返ってこなかった。山間部の気候は急に寒くなるから風呂には入らないことにした。中北部の工業都市サンペドロスラに着いてから宿を探し全身の大掃除をしよう。

このマヤの遺跡は一八三九年に発見された。遺跡は鬱蒼と生い茂るジャングルの中で泥と樹木に覆われ九世紀近く眠っていた。調査によると、西暦八〇〇年ごろの町のようだ。遺跡が発見されてから百年後、一九三〇年までイギリスとアメリカの調査団による発掘と復元、整備が行われた。残念なことに、最も元の姿を保っていた石の彫刻はホンジュラスにはなく、大英博物館とボストンにある。とはいえ、このジャングルの中に残された祠やいくつもの石できた顔や人体の彫刻は素晴らしい。

 小雨が降る明け方に、私は遺跡で一番高いところにある階段のてっぺんに座り頬杖をついていた。静かに足元に目をやると、旧時は「スタジアム」と呼ばれた場所が今は一面芝生に覆われた広野となっている。長身でがっしりしたマヤ人が大声を出しながら飛ぶように走りアメリカンフットボールをしているところを思い浮かべた。

滅びることのない魂よ、私の心をこめた呼びかけで蘇ってください。

神秘的で静かな苔むしたジャングルの中で、一瞬、霊の影がゆらゆらと揺れた。私は枝を一本拾って、草をかき分けながら遺跡からジャングルへと入っていった。驚いたことに、苔むした飛び石にはすべて人の顔が彫られていた。それらは枕ほどの大きさで、ひとつ、またひとつと緑の顔が並んでいる。コパン川まで歩いてやっと足を止めた。川の水は絶えず流れている。見るとまた寂しくなった。ミシャは林には入ってこない。石の階段に座って、林には蛇がいるからと言う。他にも彼が怖がるようなものはいる。あるいは彼をパニックにさせるさらに恐ろしいものもいるかもしれない。ただ彼には見えていないだけだ。

 コパンから工業都市サンペドロスラに到着したとき、私はすでに我慢の限界だった。道路は平坦でほとんどアスファルト舗装だが、問題はミニバスのシートが破けてスプリングが飛び出していることだ。その上に座るのだが、二つの座席に三人が詰め込まれ、私も膝の上にも五、六歳の女の子が座っていた。足元には一匹の鶏が身をよじっていて、そのフワフワした体に触れたくなくて懸命に足を縮めていた。バスに乗っている間、かなり厳しい体力テストを受けているようだった。

 バスを降りると人々は付近の一軒のホテルを指さし、私たちは迷わずそこに入った。やはりお湯は出なかったが、十何ドルか支払った。 ミシャが一匹のノミを捕まえてきて彼の部屋にいたと言った。彼が手を弛めるとノミが飛び出し、私の体のほうに跳んできてどこかにいなくなってしまった。

 ホンジュラスに来て腸炎を患った後は毎日午後になると微熱が出て、そのせいで上唇が化膿し十日以上も治らなかった。冷水でシャワーを浴びてまた熱を出すのが心配だったので体を洗わずに我慢していた。翌日、北部のカリブ海周辺の町テラに行けばやっとシャワーを浴びることができる。用心しながら顔を洗い歯磨きもした。髪をとかしおさげをきっちりと結った。これで私の秘密がばれることはないだろう。こんな状態ではあったが、それでも自分がこの町で一番清潔だと感じた。その晩は自分を甘やかすことに決め、現地の食堂ではなく中華料理店に行って気が済むまで食べた。

 その夜、夢を見た。夢の中で清潔な大型の青い鳥バスが私を乗せてシュロの木が茂る砂浜にやってきた。この上なく清潔な私は、砂の上に木の枝である人の名前を書いた。書いているとその人が海から現れた。私は狂わんばかりに喜びの叫び声をあげて海の中へ駆けていき、彼と手を取り合った。湿った手の感覚はまるで現実のようだった。

 サンペドロスラからはまた二回乗り継いだ。大型バスの二人掛け座席に三人が押し合いながら詰め込まれ、貨物も積んでいた。それは夢で見た「青い鳥」ではなかった。

 テラに到着し、バスを降りても海は見えなかった。バス停の人混みも屋台も山間部とは異なり、人々は背が高く痩せていて、大きな帽子はかぶっておらず、馬にもまたがっていない。肌の色は美しい褐色ではなく多くが黒人だ。家もまた屋根瓦と土でできたものではなく、イギリス植民式に似た木造建築で町は埋め尽くされていた。かつてホンジュラス北部にはイギリス人とオランダ人がいた。そして、十九世紀末になるとアメリカの果物会社が黒人と米国文化を持ち込んだ。スペイン人は内陸へ移り、その他の人々は沿海部に広がっていった。同じ国の中に多くの文化や人種や風景がある。それに宗教もそうだ。この地はプロテスタントがカトリックよりも多い。

 一帯の砂浜はとても狭く、海岸沿いの暗がりにまるで映画館のようなレストランが一軒あり、赤や緑のネオンを点けて狂ったようにアメリカのヒット曲を流して自然の静けさを壊している。波は荒れ、小雨が降っている。街はどこもゴミだらけで目を覆いたくなるほどの惨状だ。こんなに美しい建物が沢山あるというのに残念でならない。十数軒の大きなゲームセンターが競うように耳をつんざく騒音を立てている。ああ、これではじきに神経が参ってしまう。外食はとても値段が高いのに粗末なものばかりで、ホテルの人は当然のようにお湯は出ないと言う。だがそんなことは問題ではない。街中がこんなにも必死に騒音を立てさえしなければ、私はそれだけで満足だ。

 夜の砂浜で私はごみの中から拾ったヤシの実を海に投げた。ヤシの実は何度か波にもまれて流れ、また戻ってきた。バーでは曲が流れていた。「I love you more than I can say*1「言い表せないほど君を愛している」という古い曲だ。潮騒の中、星空の下、すべては移りゆく――。私は海岸沿いの長い道を歩きながら、ずっとあのメキシコの小さな神のことを考えていた。すっきりする方法が他に思いつかず、急いでホテルに戻り、冷たい水道の蛇口の下で体を濡らした。

 なんてさみしい国なのだろう。たった十日ほどで、この土地の憂いがこんなに私に染み込んでくるなんて。

首都テグシガルパに帰る途中、バスでしきりに自分に言い聞かせる。もし観光客向けの高級ホテルがあれば、高い宿泊代を払ってでもバスタブとお湯のあるところに泊まろう。たぶんそれは恥ずべきことではないだろう。だがここは今回の旅程のまだ二つ目の国ではないか。初めからこんなに弱っていては今後の長旅をどうやって続けられるだろう。このような庶民的な旅にこそ学ぶことがあり価値があるのに。

 道路沿いのフルーツ屋台で葡萄は一ポンド、三レンピラ五センタボだった。腹が立ち、買う気になれなかった。美しい油絵が目に入った。描かれているのは山間部の土小屋と人々で、四千ドルだった。その値段には笑うしかない。貧しい人々の生活がこんな絵に描いたような美しいものだろうか。

 最初に泊まった湯の出ないホテルに行こうとする私にミシャは抗議した。私はあまりに自虐的だと言う。彼の言うことは聞かなかった。共同浴室の蛇口をひねってザーザーと冷水を出し、この千四百キロの埃と疲れを容赦なく洗い流した。ホテルに三日間閉じこもったが、一文字も書けなかったのでもっと奥にある部屋に変えてもらった。窓がなく、机もなく、床の上に原稿用紙を広げて床に座って原稿を書いたが七、八千字を破り捨てた。あの霊界のように寂れた村がしきりに思い出される。壁しかない泥土の小屋の入口に「神は愛である」と書かれたプレートが掛けられていたのを思い出すと、言葉では言い表せないほどの悲しみがこみ上げてくる。しかし仕事を溜めたくはないし、溜めることはできない。執筆環境は劣悪で照明も不足しているが、大きなホテルには移りたくない。だがそれも実際には拘りすぎなのだ。この三日間で観光客用のレストランに三回も行った。これは山間部の人々の一年分の収入に値するだろう。路上の子どもたちにやれるお金には限りがある。とはいえ、新聞社の経費には十分な余裕がある。だが子供たちの憐れな表情を思い浮かべると、やはりお金を湯水のように使うのは忍びない。外の子どもたちはお腹を空かせているというのに、どうしてウィンドウガラスの内側でステーキを食べられるだろうか。もちろんこれは女の仁愛というものだろう。しかし私も一人の女なのだ。

 ホンジュラス滞在最終日の夕方、私は物乞いであふれる広場の一角で、低い音でハーモニカを吹いていた。その小さなハーモニカはインディアン人の谷で買ったチェコの製品だ。この旅の記念にするとしよう。

 そのとき、一台の青い鳥バスがゆっくりと町の上の方から降りてきた。ミシャが大声で言った。

「見て! 一度も乗ったことがない青い鳥だよ! 走って行って写真を撮ろうよ!」

 私は少し苦笑いし、曲を吹き続けた。

 何が青い鳥だ。ここは青い鳥が辿りつけない場所だ。青い鳥なんてどこにもいやしない!

後記

 ホンジュラスは壮麗な景観と礼儀正しい人々、そして静寂と希望のある国だ。彼らは高い水準の工業と都市、住宅地を有している。これは個人的な紀行文にすぎず、訪れた場所は全て貧しい僻地である。そこで出会った人々もまた私の愛する最下層の庶民だ。ここに記されているのはホンジュラスの一部であり、全てを示すものではないことをここに追記する。

 

訳注

*1 「I love you more than I can say」。邦題「星影のバラード」レオ・セイヤ

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