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三毛の中南米紀行 -2-

メキシコ紀行二  街並み http://www.kanunu8.com/book3/7180/158730.html

 今回の旅行ではどんなことが起こるか全く予測がつかない。「万里の道を行き、万巻の書を読む」時代ではないとはいえ、私は一応の事前準備をしてから出発した。先ず関連資料を読んでから旅に出て、自分の実体験で裏付けるというのが私のいつものやり方だ。

今回は中南米関係の旅行案内書を四冊持ってきた。ガイドブックにある宿泊施設リストから安くて地の利のよいホテルを見つけ出すのは難しくなかった。

メキシコの首都に到着して六日経ったとき、「エル・ヘラルド・デ・メヒコ」(El Heraldo de México)という新聞に私の写真が掲載された。記事には私の著作には関する内容はなかった。

 大きな顔写真が新聞に掲載された日、私は髪をおさげに結ってジーパンを履き、生活スタイルが極端に合わない友人宅に書き置きを残して別れを告げ、こっそりと中級ホテルに移動した。

 ホテルは市の中心の大きな並木道にあり、伝統的なスペイン植民地様式の建築で、壁が白く窓枠が黒い。素朴で地味な宿だが、清潔で実用的だ。料金もリーズナブルだ。浴室付きの部屋が一泊七百ペソ(およそ二十七ドル)で朝食はつかない。ガイドブックには他にも一日ドル程度のホテルも載っていたが、地図を見ると、その区域は市の中心からかなり離れており、治安も良くなさそうだった。そこまで節約することもないだろう。

 助手のミシャは言葉が通じないために仕事と生活の両方で支障をきたしている。この点については彼にスペイン語に力を入れろと何度も注意し、私を頼りっきりにせず、自分ひとりで街に出るよう励ました。

 メキシコシティは海抜二千二百四十メートルの高地に位置する周囲二百平方メートルあまりの大都市だ。ここに来た当初は、おそらく高度に慣れないためだろう、右耳が酷く痛み、鼻血が出て、ひどく疲れやすくなった。この症状は一週間すぎた頃には徐々に治まってきた。

 生まれてこのかた千七百万人の大都市に住んだことはない。毎晩、明かりを消して横たわった後にパトカーや救急車のサイレンがうるさく行き交って夜の静寂を破る。絶え間ない騒音に大都市特有の圧迫感を覚えたが、私は却って好ましくさえ感じていた。

 

美しい顔

 ホテルに移った日にタクシーを利用したが、それ以降は最初のうちはバスを使っていた。その後、四方八方に通じる地下鉄に乗るようになってからは、他の移動手段に頼ることはなくなった。

 私が見たほとんどのメキシコ人は、神様が手でこねて作ったきめの粗い泥人形だ。細かい彫を入れず、釉薬もかけず、だいたいの形ができたら、太陽に晒して乾かしてから地上に下ろす。これが地下鉄で見る最も一般的な庶民の姿である。

ここの人類学博物館では古代のこの土地の住民についてこう説明していた。彼らは子どもの額と後頭部を板で挟んで何年も圧迫し、頭を扁平に変形させる。板を外すと顔も大きくなったように見え、彼らの美的感覚ではそれが美しいのだという。

 現在のメキシコ人もそのような顔をしている。扁平な顔、濃い眉、大きな目、大きい鼻、厚い唇。それほど清潔とは言えないが、鮮やかな色合いの美しい虹のような服を着て、ぼんやりとした大人しそうな表情をしている。彼らの体にはメキシコの血以外にスペイン人の血も混ざっているが、外見はやはりヨーロッパ人とは異なり、インディアンにより近い。

 私はしばしば混雑した地下鉄に乗った。目的地はあるにせよ、時間は十分にあるので、芸術の極みに達したその顔つきを観察するために乗り過ごしてまた戻ってもかまわない。

 人は時に残酷なものだ。地下鉄内で見かけるのは大半が貧しい人々で、服装も洗練されているとは言いがたい。そういう老若男女の顔を、私は「芸術的な美」と呼ぶ。彼らにとっては大きな皮肉に感じられるかもしれない。

 メキシコシティには毎日、五百人から二千人が仕事を求めて地方から流れ込んでくる。仕事にあぶれて公園や街頭に座っている人の表情は、旅人の目にはどの顔も深刻そうに見える。だが私の観察と彼らが抱える空きっ腹に何の関係があるだろうか。

 

イシュタム[1]

 教会と博物館にはすでに飽き飽きしていたが、メキシコの国家人類学博物館は世界で最も充実した博物館の一つだと聞いて、文化人としての自分に申し訳が立つように仕方なく見学に行った。

 一回目はスペイン語ガイドについて行ったが、館内を早足で駆け抜けることを強要された。ガイドが人類史、特にメキシコの部分を立て板に水でまくし立てたせいで、入る前には知っていたはずのことが、出てきたときにはさっぱり分からなくなってしまった。

 結局、後日あらためて訪問し一日かけて見学した。メキシコは一流の国家ではないかもしれないが、このような堂々とした博物館を見ると、ある程度の敬意が生まれる。

 メキシコの太陽のピラミッド、月のピラミッドの時代はたかだか二千年あまり前のことだ。彼らのマヤ文化はもとより光り輝いているが、中国と比べれば特に古くは感じない。

 博物館の展示は素晴らしい。詳しい説明がついており、展示品は細かく分類され、壁画一枚にいたるまで丁寧に紹介されている。館内の説明は全てスペイン語である。計画段階で他言語を用いないことを決めたのだろうが、見学に訪れるのはほとんど外国人なのにスペイン語のみで表示している意味が私には未だに納得できない。

 メキシコには多くの古代の神々がいて、想像力豊かな多神教民族であることを物語っている。キニチ・アハウ(太陽の神)、イシュ・チェル(月の神)、フラカン(風の神)、チャク(雨の神)の他にも多くの神々がいる。もしかしたら、地理環境と天災が多発することによって、当時の人は万物に魂があるという概念を自然に受け入れ、このような大自然を畏敬する信仰を生んだのかもしれない。中でも私が一番好きな神はヤム・カァシュ(トウモロコシの神)とイシュタム(自殺の神)の二神だ。トウモロコシは私の大好物で、トウモロコシの神がいるということ自体に非常に親近感を持った。

 ガイドは指示棒で一枚の壁画を指しながら、神の名を次々に数えあげていく。その中でふと耳にした「イシュタム」という名に衝撃を受けた。小走りでガイドを追いかけながら、古代の自殺神には一体どんな役割があるのか、人に自殺を許すのか、自殺をする人を受け入れるのか、はたまた人を自殺させるのかということを矢継ぎ早に質問した。ガイドはそれには答えず、笑いながら私に言った。

「自殺神によほど興味があるようですね。もっと影響力があって神話にも出てくる神のことは知りたくありませんか?」

 二回目の博物館見学は自分でゆっくりまわった。自殺神を子細に観察したところ、彼自身が絵の中で木に吊るされていることが分かった。世界中のどんな宗教でも自殺は許されない。ここにだけ、書物にも出てこないこの小さな神がいる。彼らの宗教がこのような神を創造するほど人類の意志を最大限に尊重しているとは思いもよらなかった。とても興味深く意味深い。

メキシコの神の石刻の顔はじっと見るとどれも魔物のようだ。こう言うと様々な神には本当に申し訳ないのだが、彼らは悪意と強さを感じさせる。和やかさや永遠の安定と未来への希望は全くない。彼らは人の魂を懲罰するもので、慈悲深い神ではない。正直に言えば、心中さして気分が良い訳でもなく、これらの神々にただ恐れだけを感じる。当時の人類がこの土地で苦しみながら必死で生きたからこそこのように荒っぽい顔の神と神話が生まれたのだろうか。

 

ピラミッド

 当然のことながら、私たちは今もスペイン語で「ピラミッド」と呼ばれている太陽の神殿と月の神殿を見に行かない訳にはいかなかった。考証によると、紀元前二百年から紀元九百年のテオティワカンの時代の文明で、現在も米州に残る壮観な遺跡である。もとは古い城で、太陽と月の神殿というのは後世の人が付けた名称だ。外観はエジプトのピラミッドによく似ているが、中には通路もなく、王の陵墓もない。それぞれの時代の人類文明と古代都市建築を深く理解するため、私は事前に幾晩もかけて関連資料を読んだ。

ミシャと私は何度も乗り換えてようやく「アナワックの谷」という場所にあるテオティワカンのピラミッドに着いた。太陽が照りつけるピラミッドは、物売り、土産物屋、観光バス、大音量で流れる流行の音楽と世界各地から来た賑やかな観光客のせいで台無しにされてしまっていた。

太陽の神殿は六四メートルの石段の上にある。肩を並べて登っていく観光客はまるで映画が終わって一斉に出てくる人の群れのように見える。手にした携帯音楽プレイヤーからはアメリカ音楽が流れてくる。

 私は遥か遠くに座って人々を眺めた。ミシャの赤いシャツは高い石段にいる人の群れの中でも相変わらず鮮やかだった。

 その日の見物は何も収穫がなかった。観光客がうじゃうじゃいる所は世界中どこもほとんど変わらない。

 ミシャが太陽の神殿を頑張って登っている時、私は行商の自転車を借り、古代に何故そんな名が付けられたか分からない「死者の大通り」という広い道の廃墟に向かってゆっくりと漕いで行った。

 夜になってからもう一度神殿に行こうと思ったのだが、交通の問題で残念ながら再訪はできなかった。

 申し訳ないが、街並みとそこで暮らす人々の顔のほうが観光地のピラミッド神殿より興味をそそる。マヤ文化の廃墟については、ホンジュラスのコパンに行ったときに見る機会を残しておこうと計画した。

 

雑巾を食す

 道ばたの屋台で手のひら大に焼いたトルティーヤ[2]を初めて見かけたとき、私はすっかり嬉しくなった、それがメキシコ人の主食「タコス」だと知ってすぐに味見をしてみた。屋台の女性は、私が差し出した手のひらに薄く伸ばして焼いた生地をのせ、その上に何かを混ぜ合わせた餡のような具を載せた。生地で具を包んで食べ終わったときには、ソースが肘までたれていた。

 タコスには多くの種類があるが、外側の小さい春巻の皮のような生地はどれも同じく薄い黄土色をしている。具は大鍋で煮込んだ肉やソーセージ、何だか分からないもの、想像もつかないものもある。味を変えたければ、中の具を変えれば良い。

 中華料理やイタリアのパスタ、デンマークのデニッシュといった、タコス以外を食べられるのは市内では観光地だけだ。実際、私たちが市内から離れた小さい町に行くと「タコス」以外の食べ物は何もなかった。市外数百里の小さい町で食べた、生まれてから数十個目の「タコス」は、においと形がまさに雑巾のようだった。食べ残しを包み込んで汁が滴る黄土色の雑巾のような物を手づかみで口の中に押し込み、飲み込んだ。

 「タコス」は一つ数セントから一ドル五十セントで、値段は地区と中身によって違う。一つ食べるだけでうんざりするが、満腹にはならない。だが、これはこれで悪くない。市内の高級レストランで食べればその十倍から十五倍はとられるからだ。私は十分に資金を持っていたが、郷に入れば郷に従えで、最後までずっと「タコス」を食べ続けるつもりだった。しかしアシスタントのミシャにとっては非常に苦痛で、食べる度に必ず「また雑巾か!」と嘆いた。

 メキシコ滞在の最後の日、ミシャがあまりに元気を失くしてしまうことが心配で、中華料理を食べに行くことに同意したが、豪華なレストランではなく、寂れた街角にあるものを選んだ。まず春巻を二つ頼んだ。私たちの目の前に置かれたそれは、「春巻」とは名ばかりの、どう見てもどう食べても、ただ油で揚げただけの二つの「タコス」だった。

 メキシコの食は一般に貧しく、文化がない。あえてタコスの長所をあげるとすれば、箸やナイフやフォークがなくても手で簡単に食べられるところだ。衛生面については、なるべく考えないほうが良い。

 

代わり映えのしない商品

 市内の観光地では「ポンチョ」と呼ばれる美しいマントを見かける。割合に値段がはるものだが、実際には一枚の分厚い生地にすぎず、真ん中に首を入れる穴が開いているだけだ。防寒にはとても役立つ。以前、ポンチョを二、三枚ほど持っていたが、友人が気に入ったので全てプレゼントしてしまった。街の市場でとても綺麗なものを見つけたが、観光客用に高値がつけられた商品を買う気にはなれなかった。そこで、長距離バスで市外の小さい町に行くことに決めた。ミシャには、田舎に行くのは写真を撮って欲しいからだと言ったが、実は綺麗で郷土色のある「ポンチョ」を安く買って着ようという密かな目的があった。数百里もバスに揺られて服を買いに行くのは全く愚かな行為だ。しかも女性しかやらない。生憎、私は愚かで、しかも女なのだ。

 地図にも載っていない片田舎の町に着くと、絵に描いたような貧しさと乱雑さが目に入った。あちこち歩き回ってやっと資料で目星をつけていた定期市が大きな広場で開かれているのを見つけた。売っているものといえば、魔法瓶に鏡、人工皮革のジャケット、ほうろうびきの鍋、茶碗、皿、コップ、ナイロン百パーセントの服、ビーチサンダル、ボールペン、口紅、マニキュア、イヤリング、ブレスレットやネックレスなどである。

 私はあちこちの露店で「ポンチョはない? どうして売ってないの?」と尋ね歩いた。返ってくる答えはみな同じだ。彼らはカラフルなナイロンの服を持ち上げて「これが流行りだよ。どう?、綺麗でしょ! 買っていきなよ」と私に呼び掛けるのだった。

 

水上の花園

 もとは大きな沼沢だった場所が現在は一部が町になり、一部にはくねくねと曲がった水路が残されて水上の花園となっている。最初は自分たちだけで舟を漕ぎに行くつもりで、日曜日のフリーマーケットを見てから長距離バスで行く計画を立てた。友人のヨーガンは、私がきっと朝のマーケットで現地の人たちに混じってうろうろしているだろうと予想し、私たちを探しに来た。私とミシャはまんまと彼に見つかってしまった。そして、私たちは長距離バスに揺られることなく大型乗用車に乗って、観光客向けのあまり楽しくないプログラムに参加することになった。

 トラヒネラは様々な色で派手な模様の描かれた木造船で、台湾の碧潭(ビータン)という湖の大型遊覧船よりも少し大きく、船内に椅子を並べている。メキシコ人はみな太陽の子どもだ。彼らが使う色は濃く華やかで、水面に映る影の色も固まったように変わらない。

 ガイドブックには貸し船の料金は二十五ドルで、水路を漕ぎ終わるのに二時間かかると書いてあった。船頭は大型乗用車で来た外国人を見て五十ドルだとふっかけてきた。私はヨーガンの厚意は全て断り、新聞社の経費だけでまかなうことにしていたので、価格交渉を開始した。すぐに四十ドルになったが、もちろんまだ値切れる。値切りも芸術の一種なのだが、残念なことに私の鷹揚な友人はひどく恥ずかしがってもう粘りたくないと言いだしたため、新聞社の経費を浪費してトラヒネラに乗った。

 三人は舟に乗って木偶のように黙り込み退屈していた。私はそれに耐えきれず船尾に出て船頭と話をして仲良くなり、彼が操っていた長い竿は私の手に預けられた。長い竿を力いっぱい動かすと、狭い水路ではしばしば他の船と衝突する。私は愉快な気分になり、ひたすら漕ぎ進んだ。何も特別なところのある水路ではないが、音楽を奏でる船、色鮮やかな花、ブランケットやタペストリー、食べ物などを売る小舟がひしめき合って活気にあふれている。観光客向けのプログラムでも、長い竿を手に握っていると、まるで自分が船頭になったようで、現地に溶け込んだ気分になれた。

 その日は、ヨーガンも高級レストランに行くことができず、仕方なく手を使ってミンチ肉や生野菜をトルティーヤに挟んで「タコス」にして食べた。水路で近くに来た船からも軽食を沢山買った。もちろん船頭にも一緒に食べようと差し入れをした。

 水上の花園観光は、船着き場に戻って私が太いロープを陸に投げて下船し、ロープを鉄の輪にしっかりともやい結びをしてようやく終了した。自分が手を動かして関わったことは、たとえ小舟を一艘動かしただけでもとても楽しかった。不思議なことに、一緒に行った二人の男は試しに漕いでみることに興味すら示さなかった。

 

何を求めて祈るのか

 またもや日曜日、メキシコの最後の一日になった。私はミシャに、今日は安息日だから教会に行くと言った。

 メキシコに来て「グアタルーペ教会」に行かないのはいかにも惜しい。聞くところによると、一五三一年に聖母がこの地方に三回も姿を現し、現在ではすでに新旧七つの教会が建っている。「グアタルーペの聖母」はカトリック信者なら知らない者はない。大事な親戚や友人たちが気がかりだったので、神に私の遠く離れた家族への加護を求めるため、教会でしばらく静かに祈りたいと思った。

 私たちは地下鉄に乗り、市の北東へ向かった。駅を出て、波のように移動している人たちについて行った。彼らはみな聖母に向かって歩いているのだ。

 新しく建った市教会は近代的な巨大建築の一つで、室内が広すぎるため神父が拡声器でミサを行っている。外の広場はまるでサッカーができるくらい大きい。広場では男たちが長い羽飾りをつけ上半身裸で飛び跳ねながら、彼らの古代神を祭る踊りをしている。太鼓の重低音と拡声器でカトリックの聖書を読み上げる声が重なる。珍しい文化の融合である。外国人観光客はおらず、市内だけでなく市外からも色々な形の大型バスでメキシコ人たちがここの神に祈りを捧げに来る。

 広場といくつかの教会を回ったが、周りがうるさくて落ち着いて座って祈ることができなかった。トウモロコシの神を祭る踊りは人の気持ちをざわざわと落ち着かなくさせる。広場のあちこちに色とりどりの人の群れが集まっている。

 私は神父が拡声器を使って話している新しい教会のほうへ歩いて行った。農村から来たらしい夫婦連れがいた。二人のそばには埃っぽいカゴが置いてある。おそらく遠くから来たのだろう。カゴの中に丸めた服が入っていた。この二人は、混んでいて入れない教会の外に黙って跪いていた。私に背を向け、教会の中の聖母に向かってまっすぐ静かに跪き、少しも動かなかった。十数分後に、私が一周して帰ってきたときも、彼らの姿勢は最初と同じだった。

 ミシャは二人の後ろ姿をこっそり写真に撮った。私はそれを見ながら涙が溢れてきた。夫の手はずっと妻の肩を抱いている。妻は片手を夫の腰にまわしている。二人は聖母の前で永遠の夫婦であった。私はうつむいて涙を拭った。聖母が私の失った連れ合いを返してくれる引き換えに私たちが一対の石像になるまで一生あなたの前で跪くことを求めても私はその幸せを選ぶだろう。

 広場の新鮮な空気を吸いたくなって私は一人で立ち去った。人ごみを離れないうちに、何度も視界が涙に霞んだ。

 石段にいる多くの人々の中に、一人の中年男性が膝を使ってゆっくり這っていく姿が見えた。両手でズボンの裾を高く引きあげ、数歩這うごとに顔を引きつるように歪めている。私が視線を落とすと、彼の両膝は血だらけになっており、破けたズボンの生地から傷だらけの肉が見えた。まるで牛の挽肉で作った団子のようになっている。これも聖母に祈りを奉げる方法のひとつだとは知ってはいても、やはりショックのあまり喉が詰まり、走って逃げたくなったが、完全に身動きが取れなくなり、ただじっと男性を見ていることしかできなかった。その男性の十数歩後ろには彼の家族らしき一団がやはり這いながら従っており、彼らの膝は全て血だらけだった。白髪の婦人、二十歳そこそこの若者、十数歳の女の子、更に小さい女の子は苦痛に耐えられず兄の腕に縋ってはいるが、もはや立ち上がることもできないようだ。この一家には明らかに一人欠けている。その男性の妻、白髪の婦人の娘、そして子どもたちの母が──。彼女はどこにいるのだろう、病院のベッドでもうすぐ息を引き取りつつあるのだろうか、今まさに亡くなろうとしているのだろうか。彼女の家族は祈るほかにすべがなく、このような方法で神の奇跡を願いに来たのだろうか?

 この人たち、ボロボロの服で聖母に向かって這っている可哀想な一家の、血の痕が残る石畳の広場を見て涙が溢れ出し、ついに何歩か走ってその場を逃れ、袖で目を押さえた。あまりに大きなショックを受けたために、石段に座ったが喉が詰まって声が出せなくなった。

 あの人たちの歪んだ表情、血だるまの膝、苦しみを受けた魂、救いを求めるやり方、それらの全てが腹立たしかった。

 愚かな人たち! 何を求めているの?

 ああ! 聖母マリア、降りてきて下さい! あの憐れな人々を見て下さい! 彼らはあなたに向かって自らの命すら投げ出して祈り、奇跡を求めています。そして、その奇跡は肉体のある人間にとって、決して贅沢なものではないのです。なのにあなたは、どこにいるのですか? 聖母さま、何が見えますか?

 日が落ちて、教会の大きな鐘が鳴り響きはじめたが、広場では数人の人たちが、まだゆっくりと這っていた。

 私は、夕焼けが広がる空を仰ぎ見ていたが、空は何も話さない。一九八一年のメキシコ、ある日曜日の午後のことである。

 



[1]マヤ神話に登場する自殺を司る女神。

[2]トウモロコシの粉で作る薄焼きパン。現代では小麦粉で作る同様のものもトルティーヤと呼ばれている。

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